魂の存在とは?「心の理論」から考える。

宗教を信じていない大部分の日本人が、一方で魂を信じている人が多いのは(埋葬、お骨の保管、死後のことを気にする点)単に日本人が死についての思想をサボっているから…だけではなさそうである。「心の理論」が魂を生んでいる可能性もある。

 

「心の理論」とは、他者の行動の意味を類推できる能力を指している。私達人間と他の種と比べると、動物的能力が特段に優れているわけではない。走ったり、跳んだりする能力、あるいは腕力も極めて普通である。その人間が生き残るためには、集団で生活することが必要であった。一人では生きていけない場合も、集団で助け合えば、生き延びることが出来たのだ。

 

人間が集団生活をするには、他者の行動から、他者が今どのようなことを考えて行動したのか、その理由を察知して理解することが大切だった。この様な他者の行動理解を可能にする能力を「心の理論-メンタライジング」と呼んでいる。

 

「心の理論」を使って、お互いの心理状態を推察し、何を望んでいるかを理解出来ることは、人間が他の動物から抜きん出た生活能力を獲得する上で、最も重要なことだった。
例えば、じっと見つめられた場合、相手が何を期待しているのか、遊び相手になって欲しい、恋愛感情を持っている、何か手助けが欲しい、などの望みを推察できるのだ。

 

「心の理論」は、目的機能論的思考が基になっている。目的機能論的思考とは、何らかの現象が生じる時には、必ず、それに伴う原因が存在するという考えである。人間が他者に対して、その行動から心理状態を読み取る時に、「心の理論」、つまり、目的機能論的思考を用いることになる。

 

仮に、物欲しそうな動作によって、空腹だろうと推測する、うつらうつらしているのは、疲れて眠いのだろうと察すること、歩き回っているのは、決断がつかないか、イライラしているのだろうと理解するのである。その場合に目的機能論的な思考を用いる。ある動作によって、他人の心理状態を推察するのだ。この様な「心の理論」を獲得したことによって、人間は集団生活を強固なものとし、他の動物に対抗することが出来る以上に、優位性を持つことが出来て、現在の様な繁栄を迎えたのである。

 

心理学者でコラムニストのジェシー・べリングも、「ヒトはなぜ神を信じるのか」の著書の中で、「心の理論」は、他者に対する推察能力であるが、その中心が目的機能論的思考であると述べている。つまり、何らかのサインには、何らかの理由があるという考えである。人間同士の関係を理解しようとする場合は、「心の理論」は生存に有効に働いたが、人間が努力しても改善出来ないもの、つまり、自然現象に対しては、異なる様相を生み出したのだ。

 

洪水、地震、天候異変などの自然災害に対しては、人間はなすすべを持たなかった。しかし、「心の理論」では、自然災害の原因も推察しなければならないのだ。自然災害を起こしているのは、人間の英知を超えるもの、すなわち、神のなせる業であると考えるのは、「心の理論」から導き出した、目的機能論的思考に素直な考えである。

 

自然災害を人間に対する神の警告や怒りと考えたのは、「心の理論」で目的機能論的思考を持つ人間にとって必然的なことであった。自然に対する信仰は、世界中どこでも人間の遺伝子が同じ様なものであれば、同じように発生したのである。要するに、人間は神によって作られ、何らかの目的を持って生かされているのであると信じるしかなかった。人間はただ存在するのではなく、存在する理由が必要となったのだ。科学が自然現象の発生理由を明らかにした後も、相変わらず信仰が続くのは、人間の中に「心の理論」が埋め込まれているからであろう。

 

 

「心の理論」は、自然現象の解釈に神を登場させたが、同じように、人間にとって論理的に理解出来ないと考えられた死の問題に対しても、大きな影響を及ぼした。身体が消滅すれば死に至るのは当然であるが、同様に脳が無くなれば、心が無くなる(心は脳で作られる)ことが自然であるとは「思わなかった」。意識自体が無くなる状態は、人間の理解を超えているので、「魂」は、「心の理論」から必然的に、つまり、目的機能論的思考に沿って作られた可能性がある。これは、「魂」の存在を自然と考えることは、死に関する矛盾を解決することに役立つ。これに対して、身体の継続をゾンビとして考えることとは大きな違いである。

 

べリングによると、「魂」は自然だが、ゾンビはホラー映画の領域に入る(普通は考えられない)。従って、「魂」の成り立ちは、死への恐怖を和らげるために作られた可能性、あるいは、「心の理論」が目的機能論的思考を基に作られたのか、どちらかは分からない。いずれにしても、意識が消滅することは、意識自体で解決することは難しいと考えられる。そこに、超越的な宗教や瞑想的な手段が必要となるのだ。

 

エピクロスが述べた次のような言葉は、屁理屈のようであるが、それが事実を突いているのかもしれない。

 

「死は、もろもろの災厄の中でも最も恐ろしいものとされているが、実は、我々にとっては何ものでもない。何故なら、我々が生きて存在している時には、死は我々のところには無いし、死が実際に我々のところにやって来た時には、我々はもはや存在していないからである」

 

「死はやがてやって来るだろうという予測が我々を苦しめると語っている者は、愚かな人である。なぜなら、現にやってきている時には何の悩みも与えないものが、予期されることによって我々を苦しめるのだとしたら、それは根拠のない苦しみだからである。」

 

公益財団法人橋本財団 理事長、医学博士橋本 俊明
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
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