認知症患者は、世界的に急激な増加の一途をたどっている。日本の患者数は2012年の時点で約462万人、65歳以上の高齢者の約7人に1人が認知症と推計され、軽度認知症数の約400万人を合わせると、高齢者の約4人に1人が認知症あるいはその予備群という状況である。
そこで期待されているのが効果の高い認知症治療薬だ。現在まで承認されている認知症治療薬は、アルツハイマー病に対するアリセプト、ガランタミン,リバスチグミン,メマンチンである。メマンチン以外の3剤は、いずれもコリンエステラーゼ阻害作用により脳のアセチルコリンの減少を抑え,記憶や理解力と日常生活動作の改善に一定の効果があり、症状の進行を数ヵ月から1年ほど遅らせるといわれている。
ところが、フランス政府は2018年8月1日から、上記4剤の認知症治療薬を、公的医療保険の適用対象から外すことを決定した。これはフランスの医療技術評価機構が2007年から3回の評価を行い、次のように判断した結果である。すなわち、上記4剤について、病気の重症化を抑えられない、日々の生活の質をあげることもできない、施設への入居時期を遅らせることさえもできない、しかし、吐き気や食欲不振、下痢、めまいなどの副作用は無視できないとの理由であった。
こうした状況の中、人々の期待を集めているのが、認知症の症状をコントロールし、病気の進行を一時的に遅らせる薬剤ではなく、認知症の発病を根本から抑える治療薬の開発である。
これまでの根本治療薬の開発とは、アミロイド仮説に基づくものである。認知症の大多数を占めるアルツハイマー病では、脳内で異常に折り畳まれたアミロイドβ(Aβ)と呼ばれるタンパク質が蓄積することが分かっている。Aβは細胞膜を貫いて存在するアミロイド前駆体タンパク質(APP)の分解産物で、これが神経細胞外に蓄積し、凝集し、神経細胞を死に至らしめるというのである。アミロイドはいわばプラスチックごみのような物。対策はプラスチックごみを回収するか、プラスチックごみを作らないかの二つである。ごみを回収する方法としては、抗体を用いて神経細胞の外に堆積したアミロイドを除去する方法があり、ごみを作らない方法としては、アミロイドのもとになるAPPというタンパク質の Aβ部分を切り出す酵素(セレクターゼ)の働きを抑える阻害剤を用いる方法がある。この二つの治療法を巡って、世界中の大手製薬企業が次から次へと開発を続けてきたのである。
しかし、昨年8月、アリセプトを発売するエーザイとバイオジェンは、共同して開発してきたアデュカヌマブと呼ばれる抗体薬の臨床試験の中止を発表した。
抗体薬としては米ファイザー、イーライリリーに続く敗退。となると、アミロイドの増加を抑えるセレクターゼ阻害剤に期待したいところだが、これも患者の脳脊髄液中のアミロイドは減少したが、認知機能の改善にはつながらなかった。こうしてアミロイドを標的とする二方面からの作戦がことごとく失敗し、ついにアミロイド仮説を疑う声が上がってきた。神経細胞の外側の「ごみ」がADの主要な原因でないとすると、そのもとのアミロイドの前駆タンパク質(APP)に改めて注目が集まる。
話は1996年に遡る。その年、西本、山辻ら1)は、若年性認知症などを代表とする家族性アルツハイマー病に見られる変異APPが、細胞死(アポトーシス)を引き起こすことを発見した。その後、すべての家族性アルツハイマー病遺伝子の変異体が、神経細胞死を引き起こすことが確認された。家族性アルツハイマー病は遺伝性に発症するものなので、遺伝的な素因のない、高齢者に見られる一般的な認知症である孤発性アルツハイマー病の大多数には、この話は無関係と思われていたようである。
ところが、昨年11月、Ming-Hsiang Leeら2)は、画期的な研究成果を英国の科学雑誌Nature に発表した。それによると、孤発性アルツハイマー病の脳神経細胞のDNA含量は増加し、APP遺伝子のコピー数は2倍ないし3倍増加しているという先行論文を受けて、これは遺伝子の組み換えによるものではないかと考えて研究を進めた。その結果、APP遺伝子には、組み換えによって数千の変異が作られており、その一部に家族性アルツハイマー病と同じ変異を持ち、神経細胞毒性を示すものが認められた。これらの変異APP遺伝子はイントロンを欠くという構造的特徴から、遺伝子のDNA情報がメッセンジャーRNAに翻訳され、その後、逆転写酵素の働きでもう一度DNAに転換され、染色体上の別の場所に挿入された結果、生じたものと推定された。
これは音楽CDから音楽をスピーカに流すのではなく、パソコンへ取り込む操作に似ている。ただ問題は遺伝子の情報は生ものなので再挿入時にノイズ、いや、変異が入りやすいのである。挿入が起こりやすい条件としては、酸化ストレスによるDNA切断が実験的に示されている。
認知症の根本治療を考える際に大変興味深いことは、APP遺伝子が逆転写酵素の働きにより, 宿主細胞の染色体 DNAに組み込まれることで変異が生じる。さらに繰り返し組み込まれてその数を増やし、家族性アルツハイマー病と同じメカニズムで認知症を引き起こすという可能性が示されたのである。とすれば、逆転写酵素の働きを抑えれば、孤発性アルツハイマー病の発症を予防できるのではないかということが考えられる。しかし、APP遺伝子には逆転写酵素の働きはない。逆転写酵素活性を持っている他の遺伝子、老化と関連して活性化するLINE1(L1)、がんのマーカーとなるHERV(ヒト内在性レトロウイルス)などの遺伝子との協働が考えられるが、本研究ではこの点は検討されていない。
このような考えは今の段階では早計かもしれないが、論文の著者Leeが期待を込めて語っているように、APP遺伝子がレトロウイルスのように変異、増殖しているなら、RNAからDNAの転換を抑える逆転写酵素阻害剤を用いれば、アルツハイマー病(AD)の発病を抑制できる可能性がある。実は、その逆転写酵素阻害剤ならエイズ病治療の目的で既に多くの薬剤が開発されている。幸か不幸か、認知症では脳血液関門もその機能が障害されており、これらの薬も脳内に移行しやすいことであろう。
認知症に対する根本治療薬の新しい臨床試験が、開始されることを期待したい。
1) Yamatsuji T1, Okamoto T, Takeda S, Murayama Y, Tanaka N, Nishimoto I
.Expression of V642 APP mutant causes cellular apoptosis as Alzheimer trait-linked phenotype. EMBO J. 1996 Feb 1;15(3):498-509
2) Lee MH, Siddoway B, Kaeser GE, Segota I, Rivera R, Romanow WJ, Liu CS, Park C, Kennedy G, Long T, Chun J. Somatic APP gene recombination in Altzheimer’s disease and normal neurons. Nature 2018;563:639-645
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