子どもの自然な死を受容するということ

医療には、「生命をより長くすること(生命の量的な改善)」と「生命の質をより良くすること(生命の質的な改善)」の二つのゴールがあります。多くの場合、この二つのゴールは相反することなく両立し得ますが、時として二つのゴールが両立し得ないこともあります。特にジレンマとなるのは、病気の治癒が期待できない終末期において、治療によって生命の延長を図るか、それとも治療による苦痛を避けるために生命の延長を断念して自然な経過を見守ること(いわゆる「自然な死の受容」)のどちらを選択するのかという問題です。

 

「自然な死の受容」について検討するためには、生命維持のための治療によって得られるメリットとデメリットを天秤にかけて、どちらがより大切かを比較考慮しなければなりません。そのためには「その治療はどのような苦痛を与えるのか?」「その苦痛を回避することは生命を維持することより大切なのか?」そして「それは誰が決めるのか?」といった判断が必要になります。ただ、その判断は必ずしも容易ではありません。とりわけ子どもの終末期にはより大きなジレンマに直面するのです。

 

本来、子どもの生命を守ることは、社会が最も大切にしている美徳といえるでしょう。親にとって愛する子どもの生命は自分の生命以上に大切なものであり、一日でも長く生きてほしいと願っています。小児医療に携わる者たちは、子どもの生命を守ることに使命感を持って働いています。そのため、死に直面する子どもを見守る大人たちにとって「子どもの生命を守りたい」という強い思いは、もはやその治療が生命の延長を期待できない状況においても、治療のアクセルを踏み続けることにつながります。私自身も集中治療室や救急の現場で、救命の限界を超えていることが分かっていながらも、全力で治療を続けた経験は何度もあります。その結果、最終的には人々が思い描く「安らかな死」とは異なる状況の中で子どもの死を迎えることもあります。それは「最期までよく頑張ったね」と賞賛されるべきことなのかもしれません。一方、「最期まであきらめないこと」より「安らかな死」の方が、周囲の大人たちにとって、そして何より子どもにとって幸せな場合があるかもしれません。

 

治療は、時として苦痛を与えます。しかし、どのぐらいの苦痛であれば生命維持のための治療を控えることが許容されるのか、人々の価値観は多様です。特に、意思表示が困難な子どもへの治療となると、何を根拠に判断すればいいのか悩まされます。

 

例えば、生命を脅かす病気や重度の障害を持って生まれた赤ちゃんに対する積極的な治療を、親が拒否することがあります。これは「医療ネグレクト」とよばれる虐待として扱われることも少なくありません。しかし、治療を拒む親が、必ずしも子どもへの愛情が不足しているとか、子どもの利益より自分の利益を優先しているというわけではないのです。例えば、重い障害を抱えながら、大きな心臓手術を繰り返さなければ生きていけない子どもが居るとします。親の気持ちとしては、子どもが重い病気と障害を抱えながら、うまくいくかどうかわからない、つらい治療に耐えて生き続けることへの憐憫から、治療の断念を選択する場合もあります。

 

このように重い障害とつらい治療と入院生活が続く子どもの生命(生活)の質は、生命を維持させ続けるのが忍びないほどに低いと判断していいのでしょうか。積極的な治療を選択せず、生命が短くなったとしても、家族で大切な時間を自由に過ごせる方が子どもの生命の質は高いのでしょうか。そして、それは最終的に誰が判断すればいいのでしょうか。これからその子どもを育てていく親権者たる親の価値判断が尊重されるべきなのでしょうか。それとも親の判断を差し置いて、医療者や裁判所の判断で治療を推し進めるべきなのでしょうか。

 

「自然な死の受容」の判断には、「生命維持のための治療」に対して人々が抱いている信念(あるいは先入観)が大きく影響します。つまり、同じような状況でも、それを「生命が短くなったとしても、つらい治療は避けるべき」と思うか、「生命の延長のためには、生命維持治療に伴う苦痛は我慢やむ無し(あるいは苦痛は大した問題ではない)」と思うか、それぞれが抱く信念の違いが、子どもの生死を分かつ価値判断の違いにつながります。しかし、その「信念」は必ずしも確固たる根拠に基づいて形作られているわけではなく、各々の思い描く印象や直観に基づいている部分も少なくありません。

 

特に小児医療においては、疾患や病態の違いによって「信念」が一致しないという傾向がしばしば認められます。小児がんでは、治癒が見込めない進行した病状においては、生命維持治療に伴うつらい思いをさせず、自然な死を受容することが広く受け入れられています。一方、小児がんと同じく治癒が見込めない進行性の病気、例えば脳腫瘍と同じく中枢神経の進行性疾患である神経疾患や代謝性疾患では生命維持治療が積極的に選択されることは少なくないのです。

もちろん、どちらの「信念」が正しいかは簡単に決めることはできませんし、多様であっていいと思います。疾患や病態、予後の見通しによって生命維持治療の適応が異なることも当然あるでしょう。ただ、どのような「信念」を持つにせよ、生命維持治療に伴う苦痛が耐え難いものかどうかの判断が異なる場合、なぜ判断が異なるのか、その理由を考えてみることも必要です。ひょっとすると、判断の違いは必ずしも合理的な根拠に基づくものではなく、そして様々な比較考量を経たものでもなく、何らかの固定観念によって生じているのかもしれません。

ここまで見てきたように、判断能力を持たない子どもの自然な死の受容について検討するに当たっては、「その治療は子どもにとって有益なのか、それとも耐え難い苦痛を強いているのか」という問題を、「誰がどのように決めるべきなのか」という難しい判断が、医療現場で問われています。もちろん簡単に公式に当てはめて答えを出せるようなものではありませんが、子どもに関わる周囲の関係者はもとより、社会全体にとってより広く納得が得られる意思決定の在り方が求められています。

大阪市立総合医療センター 緩和医療科部長 兼 緩和ケアセンター長 大阪市立大学医学部臨床准教授 一般社団法人「こどものホスピスプロジェクト」常務理事 日本小児科学会専門医 英国カーディフ大学緩和ケア認定医(Certificate in Palliative Care) 日本緩和医療学会暫定多田羅竜平
滋賀医科大学医学部卒業。内科、小児科の研修後、小児科医として働いていたが、世界で最初の子どものホスピス「ヘレンハウス」を訪問したのを契機に小児緩和ケアの重要性を知る。英国にて緩和ケアを学び、現在は緩和ケアセンターの責任者として、小児、AYA世代から高齢者まで分け隔てなく緩和ケアの診療を行っている。
わが国で初めてのフリー・スタンディング(寄付)型の子どもホスピス「TSURUMIこどもホスピス」の常務理事も務めている。
著作:「子どもたちの笑顔を支える小児緩和ケア」(単著)など。
滋賀医科大学医学部卒業。内科、小児科の研修後、小児科医として働いていたが、世界で最初の子どものホスピス「ヘレンハウス」を訪問したのを契機に小児緩和ケアの重要性を知る。英国にて緩和ケアを学び、現在は緩和ケアセンターの責任者として、小児、AYA世代から高齢者まで分け隔てなく緩和ケアの診療を行っている。
わが国で初めてのフリー・スタンディング(寄付)型の子どもホスピス「TSURUMIこどもホスピス」の常務理事も務めている。
著作:「子どもたちの笑顔を支える小児緩和ケア」(単著)など。
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