アドバンスケアプラニング推進に付き纏う一抹の不安

いい看取りの日
厚生労働省が2018年11月30日に、この日を「いい看取り」の日とし、アドバンスケアプラニング(Advance Care Planning: ACP)の日本語名を「人生会議」としたとの報道があった。

自分の死の問題から目をそらさないで、最期の迎え方について、家族や医療者と話し合い(会議?)をして、それぞれの人が望む終末期医療を提供できるようにするというのが、ACPの主旨と思われるが、その普及が、ほぼ国策として、各種学会や医師会等を通じて精力的に展開されている。これは、尊厳死法案を推進している人々と、患者さんの意思が不明で、医学的に無益と思われるような延命措置(心肺蘇生、強制栄養等)に疑問を抱いている医療者達の意図が合致して大きなドライブを得ているようにも見える。もちろん私も医師の端くれとして、患者さんの望む最期を支えることが大切な使命だと思っているし、尊厳死運動にも一定の理解を持っているつもりである。

終末期医療についての意思表明
筆者の友人(医師)に、自らの終末期についてきちんとした意思表明をしていない者には、健康保険証を交付すべきではない、という極端な意見を唱えている人がいる。その考えが医師の間でも、一定の賛同を得ているのである。もちろん暴論だとは思うものの、そこには、そうした意思決定が不明であるために、蘇生や強制栄養といった、やらなくてもよい医療に多くの費用が使われているという懸念が、それなりの人数の医師に共有されている背景があるものと思われる。

「ACPはそうした医療費節約といった不純な動機で行うものではなく、人が最期まで尊厳を持って生きることを支える純粋な運動です!」とお叱りの声が聞こえてきそうだが、そうした善意の普及活動に一抹の不安を感じるのは私だけであろうか? 折角の善い動機に支えられた国民運動に、水を差すようなことを言うのは本意ではないが、昨年秋の麻生副総理の発言が、その不安とどこかで繋がっているような気がするので、少しだけそのお話をさせていただきたい。

麻生大臣のご意見
麻生大臣は、2018年の10月に「飲み倒して運動も全然しない(で病気になった)人の医療費を、健康に努力している俺が払うのはあほらしくてやってられん、と言っていた先輩がいた。良いことを言うなと思った」と述べたとのことである。先輩の意見に仮託しているが、要は不摂生の結果、病気になった人の医療費を、健康維持に努力している自分が払うのは、ばからしいということである。このような考えを堂々と述べることの是非は別として、同じように思っている人は結構多いのではないだろうか。

一方、小泉進次郎氏の「健康ゴールド免許」は自分の健康管理に努めている人の自己負担分を減らそうというアイデアであるが、健康に気を付けていないで病気になった人の自己負担を増やすことには抵抗がある人も、頑張っている人にインセンティブをつける政策には賛成するような気がする。あるいは、健康に留意している人の、保険料を下げたり、年度末に保険料を還付する方法もあろうが、そうした考え方は、麻生氏の発言と通底している可能性がある。

特定健診、特定保健指導
特定健診でハイリスクとされた人には特定保健指導がなされる。保健師さんの指導通りにできる人ばかりではなく、分かっちゃいるけどやめられないという人も多いはずである。飲み倒すのはその一方でアルコール依存の心配もあるが、運動が全然できていないのは、本人の意志の弱さの表れであり、俺のようにジムに通って体を鍛えている者とは、そもそも人間の出来がちがうのよというところであろうか。

この特定検診、特定保健指導は一見従来の住民に対する保健施策のように見えるが、そうではなくて、保険者が加入している被保険者に対して行う事業である。国保のように検診の実施主体が市町村の場合、この区別がつきにくいこともあるし、そんなことどちらでもいいと思っている人もいるだろう。しかし、そこには大きな違いがある。保険というのは本来、加入者同士の助け合いの精神で運営されるものである。生活保護のような社会扶助が、困っている人を社会が救うという観点で行われていることに比べて、保険にはよく言えば仲間意識、悪く言えば、ただ乗り(フリーライド)を許さない雰囲気がある。そういう意味では、麻生氏の発言も保険者および大半の健康な被保険者(保険加入者)の正直な気持ちを代弁していると言えなくもない。

国民皆保険制度の光と影
国民皆保険制度(いずれの国民も何らかの社会的医療保険に加入していること)は、我が国の優れた特徴あることは間違いない。比較的安価な保険料で、国民全員が、安心して高額な医療を受けられる制度は、他国から称賛されることが多い。単純に考えれば、国民に等しく必要な医療を提供するには、イギリスのように税を財源とする国民サービスの形が自然な気もするが、その場合、膨れあがるサービス要求に対する財源の確保が問題となる。社会保険方式には、こうした負担はいやだが、給付はタップリと受けたいという要求をはね付ける力がある。保険料を抑えるために、税金を投入することで、利用者の権利性と財政規律を両立させた我が国の国民皆保険制度は、素晴らしい反面、保険方式のデメリット(共助の仲間に相応しくない者への冷たい仕打ち)が露骨に出やすい仕組みとも言える。

ACPをしないのは他人への迷惑?
ACP運動は、当然のことながらACPをしたくない人の権利を尊重している。この点は明確にしておきたい。ACPを強制することによって本人が傷つく可能性についてもちゃんと理解している人達が、強制のない形でこれを推進しているのは間違いない。

しかし、上記のように我が国の医療制度は社会保険方式をとっている以上、原理的には、不摂生をした結果、医療費をたくさん使ってしまうと、同じ保険に入っている仲間に迷惑をかけることになる。これと同じようにACPを怠って、自分の終末期にどのような医療を受けたいかをはっきりさせていない人が、蘇生や高額な延命措置を受けるのは、他の被保険者が使える医療費を奪うことになりかねない。

念のために言っておくが、私は他人に迷惑をかけてはいけないと主張しているのではない(ここが麻生氏との違いである)。そうではなくて、国民皆保険制度に支えられた我が国の医療制度の中では、他の人がキチンとやっていること(ACPや節制)を怠った結果、医療費をたくさん使うことを他人への迷惑と捉えてしまう雰囲気があることを指摘しているだけである。

ただそういう他人への遠慮が、自分の家族への遠慮と相俟って、本当の自分の考えではなく、こういう希望(終末期には無駄な医療は受けません)を表明しておけば、みんなに迷惑がかからないのではないか、という妙な忖度の上になされる意思決定にならないかという一抹の不安が拭えないのである。

ACP活動に従事している医療関係者の皆さんから、「それは、あなた、取り越し苦労だよ」と一笑に付されそうであるが、本当にそうであって欲しい。尊厳死を望む人達が、自分たちの願いを達成するために行っている運動と、ACPは素晴らしいことだから国民に普及させるべきであると、公衆衛生施策のようにその推進が図られていることが、どこかで混線しないことを願うばかりである。

岡山大学大学院保健学研究科 副研究科長 教授齋藤 信也
1983年岡山大学医学部卒業。1987年岡山大学大学院医学研究科修了(医学博士)。
米国ネブラスカ大学外科客員助教授、厚生省中国四国医務局医療課長等を経て、2001年岡山大学医学部講師、2003年高知県立高知女子大学教授、2008年から岡山大学大学院保健学研究科教授(現在に至る)。
2015年から2017年まで医学部副学部長、2017年から保健学研究科副研究科長。
1983年岡山大学医学部卒業。1987年岡山大学大学院医学研究科修了(医学博士)。
米国ネブラスカ大学外科客員助教授、厚生省中国四国医務局医療課長等を経て、2001年岡山大学医学部講師、2003年高知県立高知女子大学教授、2008年から岡山大学大学院保健学研究科教授(現在に至る)。
2015年から2017年まで医学部副学部長、2017年から保健学研究科副研究科長。
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