ノーベル医学賞
2018年のビッグニュースは、なんと言っても本庶 佑教授のノーベル賞受賞であった。では、本庶先生はノーベル何賞をもらったのかと聞かれたら、ノーベル「医学」賞とつい答えそうになる。
「Nobelpriset i fysiologi eller medicin」というスウェーデン語を普通に訳せば、ノーベル「生理学医学」賞であるはずだが、この時は、ノーベル医学生理学賞という表記が多く、さらには、ノーベル医学賞という言い方も少なくなかった。これには、本庶先生が京都大学医学部を卒業された医師であることも少なからず影響していると思われる。
ところが受賞理由の半分以上は、免疫チェックポイント阻害因子(PD-1)の発見という免疫学、すなわち基礎医学あるいは生物学上の発見であり、その応用としてのがん治療は第二の要素であった。これは同時に受賞したアリソンが免疫学者(非医師)であり、CTLA-4 の発見が受賞理由であることが、それを裏打ちしている。
もちろん、PD-1の発見が、画期的ながんの治療薬の開発につながったことはノーベル医学賞への大きな後押しであっただろうが、前半の生理学的発見の部分が無ければ、ノーベル賞には至らなかったものと思われる。
PD-1の発見がどれほど凄いことかは理解できなくとも、それを応用したオプジーボという薬を服用して肺がんが良くなった患者さんの話の方は良く分かる。結果として、がんに効く素晴らしい薬を作った偉い先生が、ノーベル医学賞をもらったというシンプルな話になっているような気がする。
ノーベル生理学賞
一方、2016年のノーベル生理学医学賞は、大隅良典教授のオートファジーの研究に贈られている。こちらは直接医学と結び付くものではなく、細胞内の現象を捉えたものであり、また、使用した材料が酵母(カビのような微生物)であったことや、大隅先生が生物学者と紹介されたことから、ノーベル医学賞という言い方はされなかった。しかしそれだけではニュースバリューがあまり大きくないので、パーキンソン病の治療につながる可能性などを取り上げた報道もあったが、オプジーボのような具体的な薬が存在するわけではなく、その医学的なインパクトは弱かったように思われる。
生理学と生物学、生物学と基礎医学
さて、ノーベル賞でいう生理学は、生物学とほぼ同義だと考えても良い。生物学分野の最高の賞がノーベル生理学医学賞と考えている人は多い。一方では、ヒトを対象とする生物学が(基礎)医学であるという考え方がある。「医学」と聞くと、医療と密接に関係する臨床医学のことがすぐに頭に浮かぶが、ここではいわゆる医学部で最初に学ぶ生理学や解剖学、生化学といった基礎医学の話をしたい。
基礎医学はあくまでも医学の一分野であることから、人に役立つことが前提となっている。すぐに役立つのが臨床医学(内科、外科…)であり、やがて役立つのが基礎医学(生理学、生化学…)と考えても良い。もちろん人に役立つことを前提としない生物学上の知見が、結果として人にとって有用なことはあるが、それは生物学の医学への応用であって、医学そのものの研究ではないと考えるのが妥当である。
異種移植
生物学と医学の違いの分かりやすい例として、異種移植というものを取り上げよう。異種移植とは文字通り異なる種の間の移植であり、具体的には例えば、ヒヒの心臓を新生児に移植するというものである。これが成功すれば、現在のヒトからヒトへの移植(同種移植)にまつわる二つの大問題である「脳死」と、健康な人の体にメスを入れざるを得ない「生体移植」の両方が一挙に解決することになる。しかし研究は行われてはいるものの、これまで臨床での成功例は報告されていない。
ブタtoニホンザル? or ニホンザルtoブタ?
30年前に筆者が移植の研究を行っていた頃、後輩達がこの異種移植に取り組んでいた。そこで行われていたのが、ニホンザルの肝臓を摘出し、ブタに移植するという実験であった。ニホンザルを実験に供するのは、ヒトの代替としたいからであり、当然のことならが、ブタの肝臓をサルに移植しなければ医学の実験にならないはずである。
彼らの言い分は、レシピエント(臓器の受け取り手)をサルにすると術後管理がとてつもなく大変になるが、ブタは家畜であり管理しやすいことから、この組み合わせにしたとのことであった。しかし、それならイヌからブタに移植してもほぼ同じことになる。わざわざサルを使うことはない。
このように、ブタの肝臓をサルに植えるのは医学研究だが、サルからブタでは生物学研究であっても医学研究とは言えない。これが医学と生物学の違いを典型的に示している例だと思われる。
この研究は、さすがに日本移植学会といった医学系の学会には認めてもらえないと考えていたが、意外にも演題は採択された記憶がある。心の広い学会である。
了見の狭い学問
人に役立つことを目的としているかどうかが、医学と生物学を分かつ目安であるとするなら、サルからブタへの移植は、医学研究上はやはり相当おかしなことになる。
またそもそも、医学の実験に動物を供することに関して、強い反対があるのも事実であり、英国等では、動物実験施設が襲撃され、飼育されていた動物が解き放たれることも稀ではない。ヒトで実験できないから、動物を使うという考え方ひとつをとってみても、医学が人のことしか考えていない、かなりわがままな学問であることが分かる。
もちろん生物学の研究でも、動物実験は行われるが、それは普遍的な生命現象を発見したいからであり、人の代わりを動物にさせようとは考えていないはずである。また、そうした目的の場合、利用されるのは大腸菌や酵母、あるいは線虫やショウジョウバエであり、動物愛護の観点から批判されることはまず無い。
サルからブタへの移植実験は生物学の研究にはなり得ても、医学研究では無いといった批判も、医学が了見のとても狭い学問であることの裏返しである。これに対して大隅先生が、酵母を顕微鏡で一日中眺めていても全く飽きないと述べたように、生物学研究には、人に役立つかどうかなどという卑近な動機は感じられない。
IPS細胞と再生医学
さらに2012年に遡れば、山中伸弥教授のiPS細胞の作成に対するノーベル生理学医学賞がある。これも同時に受賞したガードンが発生生物学者であることからも分かるように、体細胞に僅か4つの遺伝子を導入するだけで、多能性を獲得できるという生物学的に画期的な発見に対しての生理学賞と考えるべき受賞である。
しかしこれまた、山中先生が神戸大学医学部出身の医師、しかも整形外科医として臨床を経験したこともあり、iPS細胞はどんな臓器でも作り出し、それを移植することで難病患者を救うことのできる夢の技術であるかのような報道がなされた。確かにその後、網膜や心筋、神経といった組織がiPS細胞から作れて、それが将来、それぞれの難病(網膜色素変性症、心筋症、脊損等)の治療につながる可能性が出てきた。最近、この分野には再生医学研究として多額の研究費が投じられるようになっている。一方で純粋な発生生物学的研究にはそれほど多くの予算は配分されていない。そこには再生医学、すなわち人に役立つという名目で得た研究費で、生物学的な研究も行われている内実があるものと推測される。
改めて(基礎)医学と生物学の違いについて
本庶教授は、ノーベル賞受賞にあたり基礎研究の重要性を説き、ここへの研究費の配分を強く訴えた。本庶先生は医学部の基礎医学の教授であったが、初めから創薬目的でPD-1を発見したわけではなく、免疫学上ユニークな分子を見つけ、その働きが何であるかを見出すことに興味があったはずである。つまり人に役立つのはそうした発見の結果であって、それを主目的にすると、のびのびとした研究はできないことを強調しているものと思われる。
山中先生は、学問的興味は発生生物学的なところにあったとしても、臨床医の経験もあることから、上手に基礎医学と生物学の両立を図っているように見える。しかし、まことに勝手な忖度であるが、iPS細胞から網膜を作ってそれを患者に移植する研究よりも、体細胞に多能性をもたせる研究の方が楽しそうに思える。
臨床応用を前提とした基礎医学は、研究費を得るための便法であるなどと身も蓋もないことを言うつもりはないが、人に役立つかどうかということをひとときでも忘れて、純粋に科学的発見の楽しさに身を委ねることができるのが、基礎医学の魅力のような気がする。
医学の徒としては、基礎医学は、単にヒトを対象とした生物学ではなく、常に人に役立つことを念頭においた学問であるという公式見解は維持せざるを得ないが、一方で、生物学と同じように、純粋に基礎的研究を楽しむということが許されている領域であるとも言える。
そう考えると、ことさらに生物学と基礎医学の違いを論じることの意味はほとんどなくなる。ノーベルが、医学賞あるいは生物学賞ではなく、生理学医学賞としたのは含蓄の有る判断であったと言えるかも知れない。
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