私の地元、三重県の医師会報である「三重医報」の2018年11月号に「戦後30歳も寿命が延びたことを喜べない」という一文がありました。これは、久居一志医師会長の伊與田義信先生の巻頭言の表題ですが、『その意味合いは何なんだ』と早速読ませて頂きました。
この言葉は、三重県医療介護連携アドバイザーの櫃本真聿(ひつもとしんいち)先生の言葉であると紹介されていました。このOpinionsで高齢化や老齢化の問題を書いてはきたものの、既にこんな考え方や意見も出始めているのだと驚かされました。
伊與田先生の巻頭言から少し引用させて頂きます。
高齢者、特に要介護者が急増し、認知症患者が700万人を超えることになり、医療費に加えて介護費が増加しているといいます。さらに、医療費をみてみると、その6割を四分の一の人口である65歳以上で占めているという医療費配分の偏りが見られているとのことでした。
現在の日本は、少子高齢化と言われて久しいのですが、50歳以上の割合が1980年では2割程度であったものが、2030年には6割を超えると試算され、多死時代を迎えることになります。1963年に153人であった100歳以上の高齢者が、2025年には13万人になるというデータもあります。こうして2039年には死者数がピークとなり、年間167万人が亡くなられるとされています(私が生きていたとして、86歳ですが、素朴な疑問として、火葬場は足りているのでしょうか。生きていて確かめたいことではあります。)
現在、80%以上の方が病院で亡くなられているというデータもあるようですが、一方で、国は財政面からの理由なのか、病床を減らそうと躍起です。そうすると、近い将来には病院で亡くなることが難しくなる時代が来るのでしょうか(というか、冷静に考えれば病床が足りなくなるのが当たり前ですよね…)。
国は、在宅での介護を謳っていますが、これまでにも書いてきたように、在宅での看取りの体制は十分にできているとは言えず、最期を迎える場所が無いという「看取り難民」が出現するのではと危惧しています。(否、そう予言させて頂きます)。
多死の後に、今度は急激な人口減少が起こります。しかし、2050年には100歳以上の高齢者が53万人になるとも見込まれていて、少子高齢化は解消されていないでしょう。そして、2100年には日本の人口が5000万人を切ると予想されています※が、これは明治初期の頃の人口と同じだそうです。ただ、明治初期の頃は若者が大半であったわけで、同じ5000万人といっても、やはり高齢者が多い人口構成に変わりは無さそうです。こうなると、「坂の上の雲」も暗雲と言い換えねばならくなりそうです。
※2018年11月27日、移民法が衆議院で強行突破されました。この法律の成立で、2100年の人口の内、一体「日本人」はどれくらいの数になっているのか、混血化が進んでいるのか、一抹の不安がよぎります。もっとも、今の日本人も北方系と南方系の人達が、日本列島に流れ着いて混じり合って出来上がってきた民族のようですから、新しい形での「日本人」ができていても不思議ではないでしょうね。一番残念なのは生きてそのことを確認できない事です…、アハハ。
さて、同じ2018年11月27日に、衝撃的なニュースが飛び込んできました。中国で、エイズに罹りにくくするように遺伝子を編集された双子の女児が誕生したというものです。現段階で、その双子の写真もなく、正式な発表や論文も出されていないとのことですが、その後、中国はこの研究を凍結すると発表したようです。さらには、この報道が出た直後から、世界中の研究者たちからきちんとした手続きもない上に、何より無謀な人体実験で危険であるとの激しい批判が巻き起こっています。
クローン羊として有名になったドリーの時でさえ、「神の領域」への侵犯と言われ、人類の破滅への扉を開いたとも言われたと記憶しています。中国での人間の受精卵の遺伝子操作をされた人間の誕生は、ある意味でその分野の研究者が自らに課してきた掟破り、「パンドラの箱」の蓋を開けることにならなければ良いのですが…。これはこれで、医学の進歩が良い事なのかと疑いを持つ出来事です。(中国という国は、進んでいるのかどうなのか、時々とんでもないニュースが出てくるお国ですよね。)
こうした研究と、アンチエージング(加齢を防ぐ技術)の研究が結び付く時代が来るのかもしれませんが、そうなれば長寿化に一層拍車を掛けることになりそうです。このような医学の進歩(と片付けるわけにはいきませんが)の行き着く所にあるのは、かつてSFで描かれたフランケンシュタインの存在ではないかと、1人で危惧していますが、私だけの杞憂であればと願うばかりです。
これから先、神ならぬ人間が行うことですから、余り背伸びをせず、ただ生命を維持するというのではなく、その人らしく、「限られた生をよりよく生きる」という考え方への転換が求められているように思えてなりません。そのためにも、これまで言ってきたように、「死」をもっと身近なもの、「生」と裏表の存在として考えていく方向への転換が必要だと思うのです。
ここまで書き続けてきて「人生100年時代」という言葉が、少し薄っぺらに思えてくるのは私だけでしょうか。どうも、高齢者に払う年金が足りなくなっているお国の都合で、高齢になっても(死ぬまで?)働かそうという思惑が見え隠れしているようだと言えば、言い過ぎなのでしょうか。
私としては「生涯現役」を目指していますので、言われなくても働き続けたいと思っているのですが、他から言われると嫌になってくるなぁ…(つくづくへそ曲がりのようですわ)。
「老いること、すなわちまた生きることなり。いつの日か、生命果てぬ時来たらば、有り難き心捧げて死を迎えぬ。
されど、いよいよ死ぬるその時まで、与えられし生命を愛おしみて、一筋に生きぬくべし。」
「日残りて 昏(くる)るに 未だ遠し」
藤沢周平『三屋清左衛門・残日録』から
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