誰のための介護なのか

「我が親を 人に預けて ボランティア」
これは、介護の現場で囁かれている川柳だと最近お聞きしました。もっとも、ボランティアでは一文にもならないので、私なら「我が親を 人に預けて 出稼ぎに」としたいところですが、ちょっと下世話になりすぎるでしょうか。

さて、少子高齢化が叫ばれ、高齢者の介護が問題となり、介護を頼める人がいない上に、施設に預けることもできない人たちが出始めました。そして、遂には息子が早期退職して老いた父や母の介護をするといった事態も生じました。これでは働き盛りの人材を失い、経済効果にはマイナスだとの議論も出始めています。後にも出てきますが、その頃になると、一般の医療病棟への高齢者の社会的入院といった問題も取り上げられ、そうした経緯から、今の介護保険制度が作られたのではないかと考えています。

この介護保険制度が制定される前の状況では、高齢者の介護は老人福祉と老人保健医療の異なる二つの体系下で行われており、利用手続きや費用負担において不均衡があった他、老人福祉では行政がサービスの内容を決めることから、利用者が選択できない点に加え、保険医療サービスでは、一般病院への所謂社会的入院による、入院の長期化が問題になっていました(この問題は、後日、医療に必要な病床数を減らす方向への見直しへと繋がっていきます)。

こうした問題を解決するために、両制度を再編成し、社会全体で介護を支える仕組みとして、1997年(平成9年)に介護保険制度が制定されたのでした。そして、2000年(平成12年)4月1日に施行された介護保険法に基づいて実施されることになりました。この介護保険の制定に当っては、社会保険方式を取るドイツに倣ったと聞いています。ただ、ドイツに倣うつもりだったという方が正しいようで、結果的に、「誰のための介護なのか」と言いたい思いに駆り立てられ、冒頭の川柳が生まれるに至ったと思われます。

何故なら、お手本としたドイツ方式では、家族が介護を行った場合でも、その介護の内容に対して対価を与えるというものでした。ところが当時の年配の女性議員(お名前は失念しました)の執拗な反対により、家族の介護に対しては対価が払われない結論になったのです。本来、介護の対象についての知識が一番豊富なご家族による介護が、ある意味で否定され、いわば他人の手に委ねなければ対価が発生しないことになったのです。当然、介護を担う職種が必要となり、これまでの家族による介護は「無用」なものと見なされ、みすみす、介護の一番の担い手であり、当事者が最も望むはずの介護担当者を外す制度となってしまったのです。

反対を唱えた女性議員が、その後の経過を見定められたかは存じ上げませんが、当時、「介護の担い手の多くは女性であり、その介護に対価を与えることは、女性を介護の現場に縛り付け、社会進出を拒むものである」とか何とかと言った論調だったと記憶しています。

しかし、現実にはどうなったのか。

介護の担い手となる職種は、新しい仕事として当初は脚光を浴びはしましたが、現実は、赤の他人の介護という、ある種「負」の仕事であり、肉体的、精神的にも辛い仕事であることが、程なく認知され始めました(そりゃあ、そうでしょう。家族だから、いやとも言わず(言えず?)にしていた介護だったのですから)。一方で、介護担当者には、大した権限も持たされず、賃金も安い(なんでこうした所に国は金を出さないのかな?戦闘機の購入を1機減らすだけでも賄えそうなのに)とあっては、制度そのものに不備があったとしか思えなくなります。

さらには、先の川柳にもあったように、元々仕事に就いていないご家族が家にいて家族の介護をしても対価が出ないだけではなく、他人様に経費を払って、しかも(介護担当者には申し訳ないですが)、その内容には一定の限界がある介護にお金を払うことになるのですから、上手くいくはずがありません。悪くすると、持ち出しとなって生活ができなくなる可能性も出てくるのですから、介護が必要な家族を家に残して別の人に頼み、経済的余裕がなければ、介護の費用を稼ぐために家を離れて仕事をしなければならなくなるのは、自然な成り行きではないでしょうか。(このことに関しては、個人的には、それまで家族が、家族であるが故とはいえ、当然の成り行きとしてきた「介護」という行為に値段を付ける事態になったと感じています。そして、このことが、本来、無形であるはずの心の問題に、値札を付けて有形の物にしてしまったような違和感を覚えました。結果的に、家族内における絆という大切な物まで値踏みさせるような下種な制度になったのではないかと案じています。)

今回の介護保険制度の導入に際しても、日本のお役人たちが「外国の制度をお手本にする」と言う時によくあるパターンで、自分たちに都合の良い所は「お手本」として謳いあげるものの、都合の悪い所は、その整合性には全く配慮がないままに、自分たちの思うような形にしてしまうというやり方であったように思えます。本来、政権担当者が、それなりの見識と然るべき信念を持って事に当れば、こんな馬鹿げたことにはなっていないでしょうに。そして、既にすべてが「後の祭り」という状況になっていることもまた、これまでの場合と同じなのです。

このことの責めをどこに求めるかと考える時、先の女性議員の声が大きかったことが第一ではあるにせよ、その大声に押されてか、一部の国民やメディアが騒ぎ立てたことも、その原因ではあったでしょう。さらには、先のお役人の制度改革の時の「パターン」に加えて、本当のことを言うと叩かれるという我が国の悪しき慣習(というか、叩かれたくないという事なかれ主義)や、物事の是非を冷静に議論すらできないという国会議員をその代表とする国民性に負うところが大きいと思われます。

ここまで書いてきて、まったく無意味なことを書いている気がしてきています。そう、これで何かが変わるというわけではないからです。

そして、何より、「一体この介護制度は誰の為のものなのか」と言う起点に行き当たります。きっと、制度改革を掲げた政治屋、いや政治家や官僚の皆さんの業績とするためだけにあったのではなかったかとさえ思えてきます。そして、この制度がもたらした光景は、それを生業とする他人による、する側にもされる側にも辛く厳しい介護という実態と、介護が必要な家族を家に残して稼ぎに行かなければならない(これもまた高齢の)ご家族の後姿と、賃金の安さから人手が確保できず、必要な介護を受けられないで箱モノに押し込められた高齢者の物憂げな表情という、予想もしなかった光景になっているように思えてなりません。

こうして、この制度は、最近特に増えてきている我が国の政治や国民性が産み出している「負」の遺産として、後世にその存在を示すことになりそうです。

もし、「お前の意見は間違いで、介護に関わる全ての方々が満足していらっしゃるのですよ」と言っていただけるのであれば、ここに書き連ね問題提起をした意味もあったと言えるので、素直にお詫びを申し上げるのですが…。もっとも、それならば、ここで頭を悩ましながら書くこともなかったでしょうが…。

医療法人 寺田病院 院長板野 聡
1979年大阪医科大学を卒業後、同年4月に岡山大学第一外科に入局。
専門は、消化器外科、消化器内視鏡。
現在の寺田病院には、1987年から勤務し、2007年から現職に。
著書に、「星になった少女」(文芸社)、「伊達の警察医日記」(文芸社)、「貴方の最期、看取ります」(電子書籍/POD 22世紀アート)、「医局で一休み 上・下巻」(電子書籍/POD 22世紀アート)。
資格は、日本外科学会指導医、日本消化器外科学会指導医、がん治療認定医、三重県警察医、ほか。
1979年大阪医科大学を卒業後、同年4月に岡山大学第一外科に入局。
専門は、消化器外科、消化器内視鏡。
現在の寺田病院には、1987年から勤務し、2007年から現職に。
著書に、「星になった少女」(文芸社)、「伊達の警察医日記」(文芸社)、「貴方の最期、看取ります」(電子書籍/POD 22世紀アート)、「医局で一休み 上・下巻」(電子書籍/POD 22世紀アート)。
資格は、日本外科学会指導医、日本消化器外科学会指導医、がん治療認定医、三重県警察医、ほか。
  • 社会福祉法人敬友会 理事長、医学博士 橋本 俊明の記事一覧
  • ゲストライターの記事一覧
  • インタビューの記事一覧

Recently Popular最近よく読まれている記事

もっと記事を見る

Writer ライター