中山恒明先生
年配の医師、特に外科医にとっては「中山恒明」という名前は、食道外科の先駆者として特別なものである。かの「白い巨塔」の財前五郎のモデルの一人とも言われている人物である。
この中山先生が千葉大学教授時代に、ニセの診断書を書いたことで、同大学をクビ(正確には自主退職)になり、東京女子医大に移ったというスキャンダルを覚えている人も少なくなった。その際に、東京女子医大の消化器病センターに引き連れていった彼の弟子たちが、我が国の食道外科や肝胆膵外科をけん引したことを考えれば、「災い転じて福となす」といったところであろうか。
千葉大ニセ診断書事件
さてそのニセ診断書事件の顛末である。
中山医師は、食道がんで死亡した患者の内縁の妻から、死亡診断時刻を遅らせてくれるよう依頼され、実際の死亡時刻よりも18時間遅い死亡時刻を記した虚偽の診断書を発行した。当の(内縁の)妻はそのタイムラグを利用して、婚姻届けと子供の認知届を提出した。これは当時5億円ともいわれた遺産相続に大きな影響を与えるものであり、不審に気付いた警察の捜査により、ニセの死亡診断書事件が発覚したものである。
いやはや何とも言えぬ事件であるが、これが単なる町医者ではなく、非常に高名な医学部の教授がニセの診断書を発行したということで、大きなセンセーションを巻き起こしたのである。誰がどう見ても、医師としてやってはいけないことをやってしまったと思われるが、では、いったいどこの法律に触れたのだろうか。
刑法160条(虚偽診断書等作成)
刑法160条には、「医師が公務所に提出すべき診断書,検案書又は死亡証書に虚偽の記載をしたときは、3年以下の禁錮又は30万円以下の罰金に処する。」とある。また、156条には、「公務員が、その職務に関し、行使の目的で、虚偽の文書若しくは図画を作成し、又は文書若しくは図画を変造したときは(後略)」という公文書偽造罪の規定がある。当時の千葉大学は国立大学であり、中山教授は国家公務員であったはずなので、こちらの条文が適応されたものと思われる。このように160条は公務員ではない医師に適応される条文とされるが、いずれにせよ医師がニセの診断書を書くと、刑法犯になることは間違いない。
刑法が、虚偽診断書作成罪を設け、厳罰でこれに臨んでいるのは、診断書が私法・公法上の権利義務に関係する重要な文書であることを重視しているからである。千葉大事件も、まさにニセ診断書に基づいて遺産分割がなされんとしたものであり、民法の側からも医師による診断書の偽造を刑法で厳しく罰してもらわなければ困るのである。
また、文書偽造罪では通常、文書の内容を偽る「無形偽装」は、文書の作成名義を偽る「有形偽造」よりも罪が軽いが、この虚偽診断書作成罪では、医師が公務所(公務員が職務を行うため、国または公共団体が設けている場所のこと。役所と考えて良い。)に提出されることを知っていて、診断書に虚偽の記載をすることは、厳しく罰すべきという考えから、無形偽装であっても重い罰となっている。
たとえ患者や家族のためであっても
そもそも医師は、患者のため、家族のためにできることは何でもしてあげたいという心性を備えている。想像するに、一生懸命に看病し、愛する夫を亡くした(内縁の)奥さんから涙ながらに「実は先生にお願いがあります。」と訴えられた時に、医師モードから通常モードへの切り替えはとっさには困難かも知れない。
もちろん、言下に「それはできません。」と断らなければならない。医師も社会人として、法律を遵守しなければならないのは当然である。さらには、医師の職業倫理から言っても、虚偽診断書作成が許されるものではないのは自明の理である。
とは言うものの、家族の哀願にほだされそうになる危険な心根と、患者のために全力を尽くす姿勢は表裏一体と言えなくもない。医師は,自らのそうした性向が分かっているからこそ、できれば診断書発行などという業務は避けて通りたいと思っている。処世の知恵としても、君子危うきに近寄らずで、記載内容によって厳罰に処せられる可能性のある診断書そのものの作成を断ることはできないのであろうか。
診断書発行義務
医師法19条に「診療に従事する医師は、診察治療の求があった場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない。2.診察若しくは検案をし、又は出産に立ち会った医師は、診断書若しくは検案書又は出生証明書若しくは死産証書の交付の求があった場合には、正当の事由がなければ、これを拒んではならない。」とあるように、医師には診断書の発行義務が課されている。
ちなみに、歯科医師法19条にも「診療に従事する歯科医師は、診察治療の求があった場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない。2.診療をなした歯科医師は、診断書の交付の求があった場合は、正当な事由がなければ、これを拒んではならない。」とよく似た規定がある。
医師が発行する診断書の内、特殊なものとして、死亡診断書、死体検案書、出生証明書、死産証書が挙げられているが、それぞれ発行可能な者を整理すると図1のようになる。
ここでは、死亡診断書と死体検案書の区別の詳細には触れないが、診ていた患者が死亡した場合は死亡診断書、死体を初めて見た時は死体検案書と大雑把に理解して頂きたい。要はどのようなタイプの診断書であっても、医師はその求めがあれば、正当な事由が無い限りこれを断ることはできないのである。さらに正当な事由は、非常に狭く解釈されており、余程のことが無い限りは、患者やその家族から求められれば医師は診断書を発行しなければならないと考えて良い。
死亡診断書の役割
厚生労働省が発行している「死亡診断書マニュアル」には、死亡診断書の意義として
① 人間の死亡を医学的・法律的に証明する。② 我が国の死因統計作成の資料となる。
この2つを挙げている。
通常死亡診断書(死体検案書)が、死亡届とセットになった書式になっていることからも分かるように①が主目的と考えて良い。
一方、死亡届は戸籍法86条に規定されており、「死亡の届出は、届出義務者が、死亡の事実を知った日から七日以内(国外で死亡があったときは、その事実を知った日から三箇月以内)に、これをしなければならない。2.届書には、次の事項を記載し、診断書又は検案書を添付しなければならない。」とあるように、そこには死亡診断書が必要である。次に、この死亡届をもって、屍体埋葬法による火埋葬許可が下りることになる(図2)。
遺産相続も、死亡診断書とセットの死亡届の提出により死亡末梢された戸籍を基本に行われる。つまり各種権利関係が、医師の発行する死亡診断書に基づいて生じるのである。このことを考えれば、診断書発行は医師の役割として無視のできないものといえる。虚偽作成に刑法が厳罰をもって臨むのもむべなるかなである。
死亡診断書と医師
医師は患者を救うのが仕事であり、死亡診断書を書くために存在するのではないと言い放った先輩医師がいたが、その気持ちは良く分かる。死亡診断書が書きたくて医師になった者はまずいないと思われる。
しかし、医師に死亡診断を委ね、医師が発行する死亡診断書をもって、公法・私法の権利義務が規定される仕組みは近代国家の基本とも言える。江戸時代までは、死亡の確認や、その埋葬への医師の関与はあまり無かった。明治になってから、近代法制が整備されたことによって、生きている間は貧乏で医師に診てもらう事はできなくとも、死亡届と埋葬許可のために、死に際だけは医師に診てもらわざるを得ないという奇妙な現象が生じることになった。
医師の方も、患者を治すためにとナイーブに医師を志したのだとしても、近代の制度の基では、診断書発行人としての役割を回避することはできないことになる。国家資格として医業を行うことを許された者として、その国家から死亡診断書を書くように言われたら、それを断ることは難しい。
死亡診断書ほど極端でないにしても、医師の発行する診断書に基づき、休職が認められたり、保障がなされたりと、一般的に診断書の社会的役割は非常に重い。その診断書は、患者の求めによって作成される。しかし診断書の記載が患者にとって不利に働くことも当然考えられる。内容を巡って難しい判断を迫られる医師は少なくない。トラブルに結び付きそうな場合もあるだろう。断れるものなら断りたい。しかし医師は、患者やその家族の要請だからこそ、そこを踏ん張って診断書を書いているとも言える。
患者のため?社会のため?(むすびにかえて)
診断書を発行するのは、通常は主治医である。当然、患者のために一生懸命に行っている日々の診療の延長線上に、彼らから依頼される診断書が存在する。患者ファーストで行動してきた同じ医師が、社会のための証明書としての診断書を書かなければならないことになる。両方の立場を上手く使い分けられる器用な医師ばかりではないだろう。いや不器用だからこそ、医師というある意味割に合わない仕事をしているのかも知れない。
近代国家は、診断書発行義務を介して、医師に国家機関の一翼を担わせてきたとも言えるが、患者を治すことが職業の医師が発行する証明書である診断書と、役所が発行する各種証明書は、その後の役割は似ていても、その来歴には大きな違いがある。証明書発行が一義的な仕事であるお役所的発想で、診断書の内容について色々言われることに若干の違和感を覚える医師は少なくないのではないだろうか。
賢明な読者には分かっていただけると思うが、筆者は、情に負けて虚偽の診断書を発行した医師を許して欲しいと言っているわけではない。ましてやそうした行為を正当化するつもりも毛頭ない。診断書は医学的判断に基づいて正しく発行されなければならない。それは社会のルールである。ルールを破れば罰せられて当然である。
読者の興味を引くために、センセーショナルなニセ診断書事件をイントロダクションに持ってきたことから、議論をミスリードしている恐れがあるが、そうした明らかな犯罪ではなくて、医師の日々の業務としての診断書発行について論じていることを、ここで改めて確認したい。
患者第一に行動する医師と、社会の代理人としての医師という2つの相反する医師の役割がクロスする場面を象徴する物の一つが診断書である。患者の求めと医学的判断が必ずしも一致しない時に、役所の窓口のように振る舞えればどんなに楽だろうと思いながら、診断書をしたためている医師の姿が浮かんでくるのである。そしてそれはとても良心的な医師のはずである。
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