8月3日の毎日新聞1面トップは、医師の働き方改革、診療縮小のニュースが大きく取り上げられていた。大学など高度医療を提供する全国の特定機能病院1)が医師の長時間労働の是正に取り組んだ結果、診療体制の縮小につながり始めたというものである。調査によると全国85特定機能病院では、約3分の2の病院が医師の勤務時間の上限を「過労死ライン」とされる月80時間以上に定めていた。
1)高度の医療の提供、高度の医療技術の開発及び高度の医療に関する研修を実施する能力等を備えた病院として、第二次医療法改正において平成5年から制度化され、平成29年6月1日現在で85病院が承認されている。
医師の働き方改革は、診療体制の縮小という医療サービス、病院経営上の新たな課題を抱えながらも、長時間労働の是正はこれで大きく前進することになったが、過労対策の一つの側面からのアプローチに過ぎない。それを示すのが相模原市の津久井やまゆり園、横浜市の大口病院で起こった凄惨な事件である。話を始める前に、この二つの事件で犠牲になった障碍者、高齢者の方々に心から哀悼の意を捧げたい。
この二つの事件は、施設・病院において看護師や介護士がひき起こした疑いで、現在捜査中、もしくは審理中である。今後、二人の犯罪性が問われたとしても、責任能力が争点となるであろう。被告が犯行時に、心神耗弱ないし心神喪失であったと判断された場合は、罪を減じたり無罪とされたりする可能性があり、今後の経過を見守りたい。
この二つの事件は共に「過労」という問題が引き起こしたことのではないかと思えるのである。ただそれは肉体労働や頭脳労働の過労ではなく、感情労働の過労ではなかったかと疑うのである。感情労働とは、アメリカの社会学者A.R.ホックシールドによって提唱された新しい労働形態で、「感情を管理する労働」である。相手(=顧客)の精神を特別な状態に導くために、自分の感情を誘発、または抑圧することを職務にする、精神と感情の協調が必要な労働を指す。
そこで知りたいのは、二人がそれぞれその職場において何かを見て、そして、何事かを強く感じ、そして、そのために大きな心の傷を負っていたのではないかということである。二人はそれぞれに障碍者、高齢病弱者を看護・介護する過程で心の傷を負い、ともすれば無気力と憂鬱から自殺に至るところ、職場の統制あるいは人間関係への反発としてその感情が内向きから外向きに転じ、自殺という形をとらないで殺人に至ったのではないか。その際、矛先が患者、障碍者という弱者に向かったのは、そこでの医療介護の実態が差別的であり、二人がそのような考えに染まっていたからだと考えてみるのである。
私の経験を述べてみたい。
私自身が大学を退職し、地方の病院の管理責任者となった時、その病院の抱えていた大きな問題の一つは、医師不足による医師のオーバーワークであった。もう一つは高齢化による医療ニーズの変化という問題であった。
そこで高齢者医療への取り組みと医師不足の両面への対応として、終末期の高齢者を受け入れるための「地域支援緩和病床」を新設した。口腔ケア、リハビリ、褥瘡、栄養、退院支援等の専門職を集めた多職種医療チームの開発である。これにより高齢者の受け入れが進むと共に、胃ろうの件数は年間100件台から10件台に減少していった。そして内科医師の不足は、この問題に関心を示した医局系列に属さない総合医の新たな参入により、徐々に緩和されたのである。
しかし、その時の私には病院医療それ自体の影は見えていなかった。4年後に老人保健施設に勤めることになったが、そこで見たものがまさしく病院医療の影そのもの、負債の山であった。胃ろうに繋がれた老人がずらりと並び、そのような大部屋が何室も続く。暗く深くよどんだ淵に沈んだ人々。私には耐えられそうにはなかったが、ここに至るまでの介護職の大きなストレスを思うと逃げ出すわけにはいかない。果たして「胃ろうからの撤退」「胃ろうの差し控え」ができるのか。悩む私に、一人の患者の死が問題の解決策を教えてくれたのである。それが自然死であり、カへキシア2)による死であった。胃ろうなどの人工栄養はこの自然のメカニズムに逆らうことであり、終末期の悲惨を招くことにもなる。このことは、すでにこのコラムで紹介させてもらっているので参照いただきたい。
私の老人保健施設での苦悩はこのように「自然死」の理解により軽減できたのだが、同じように、介護の現場では目の前の医療の影の部分に苦悩する人が多くいるのではないだろうか。
2)食欲不振・体重減少・全身衰弱・倦怠感などを呈し、生命予後やQOL(quality of life)に多大な影響を与える病態で、進行性の死に至る病態である。体重減少については、脂肪組織の減少の有無にかかわらず、進行性の著しい筋組織の減少が見られることが特徴である。
(参照 「食べていても痩せる 高齢者終末期のカヘキシア(悪液質) 田中紀章」)
相模原市の津久井やまゆり園、横浜市の大口病院の事件を引き起こした若い二人にとっても、そこでの医療、介護の実態が衝撃的なものではなかったのか。大口病院では胃ろうの代わりに点滴が並び、彼女は立ちすくんでそれを見ていたのであろう。津久井やまゆり園では障碍者介護の中での人間関係に苦しんでいたのであろう。本来の職務なら、様々な感情の体験にたじろぐのではなく、自らの感情を管理し、新たな人間関係を作りながら、看護・介護を円滑に進めなければならない。しかし、彼らにはそれが上手くできなかった。感情労働の放棄、さらに、そこで行われていた医療・介護の差別的側面へ逃避し、遂に破綻・・・。
アメリカ合衆国などには善きサマリア人の法(good Samaritan law)というものがある。「窮地の人を救うために善意の行動をとった場合、救助の結果につき重過失がなければ責任を問われない」といった趣旨の内容である。この例え話を私の考えで続けてみる。
善きサマリア人がもし善意の行動を行っても、それを相手から拒否されたり、誤って相手を傷つけてしまったりすることがあった場合、善意からの行為であっても援助者本人の心も傷ついてしまうかもしれない。そしてそれを繰り返すと、善意はだんだんと消失していく。医療・介護の現場もこの例え話に近い状況にある。日々の支援を行う上で、せっかくの善意が傷つけられ、消失していくような状況は避けなければならない。そのためには、もう一人の善意のサマリア人(同僚)のサポートが必要である。そして必要なサポートは力仕事の分担ではなく、心のケアなのである。
前述の二つの悲惨な事件を考えるに、必要なことは、二人目のサマリア人の役割を担う仕組みである。他の看護・介護職からのサポートが常に機能するよう対人援助の組織を見直すことと、現場の看護師、介護士への教育、この二つであろうと考えている。
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