現在「認知症」の早期診断が急速に広まる中で、医療現場ではこれがどういう意味を帯び始めているのか?このような問題意識で「認知症早期発見時代のネオ・ジェロントロジー」と銘打ったシンポジウムを慶應大学で3月に開催したところ、認知症医療を牽引してきた第一線の専門医等が集まった。中でも印象的だったのは、ある医師による発言――「認知症」という診断が現在「呪い」として機能していないか――という問いを、フロアの医師や研究者たちが真摯に受け止め、認知症臨床をどうしたらより救いのあるものにできるか、熱い議論が交わされたことだった。
医療的診断とは、本来ならば当事者の苦悩に言葉を与え、治療の選択肢を示し、予後の見通しを立てることで、人々に希望を与え得るものだ。それが(がんのように)重篤な病であれば尚更のこと、診断は、「その人がその人らしく生きるため」の契機となり得るものだろう。ところが、認知症に関しては、どうも必ずしも上手くいっていないようだ。確かに認知症に関する理解が足りず、虐待や隔離という悲惨な状況が見られた2000年代には、早期診断・早期介入を進めることに大きな意味があった。しかし認知症の啓発が進む中で、逆に「早期診断」が「早期絶望」をもたらしていないか――診断を下したものの適切な支援につながらず、人生をどう立て直していいのか当事者も途方に暮れる、(当事者の藤田和子さん1)がいうところの)「空白の期間」が生じていないか――が問われるようになっている。
1)2007年、45歳で若年性アルツハイマー型認知症と診断される。NPO法人「若年性認知症問題にとりくむ会・クローバー」副理事長。
早期診断をめぐる混乱の理由として、第一に「科学的不確実性」が挙げられる。「認知症」とは、未だ科学的合意が得られていない複雑な症候群であり、治療法どころか確実な診断法すらも確立されていない。にもかかわらず、早期診断の動きが拡大していくことで、超高齢社会によって要請される社会的入院も含めた、急激な老いの医療化が起こっている。しかし病因論としてのアミロイド仮説2)に対する疑念が強まり、製薬会社も次々と抗認知症薬開発から撤退する中で、人々が抱く医療的救済への期待と、医師が直面する科学的不確実性の乖離はますます大きくなっている。
2)アルツハイマー型認知症の原因として、いま最も支持されている仮説。神経細胞外に老人斑といわれるアミロイドがたまり、脳の萎縮につながると言われている。
第二は、治癒がない中で高まる「予防」への期待だ。認知症の市民講座で最も人気を博するのは「予防」だというが、認知症予防をめぐるメディア言説には、時に奇妙なまでの明るさと、(まるで、ひたすら心身の鍛錬を続ければ認知症から永久に逃れられるかのような)魔術的思考が感じられる。確固たる予防法がまだないにもかかわらず、いたずらに「予防/対策」が謳われることの裏には(認知症を認めて共存する覚悟を決めるというよりは)、「回避/根絶」を願う新たなスティグマ3)さえ感じられる。科学的エビデンスが欠けた脳トレ等を自治体が推奨する中で、逆に不合理な希望と絶望のサイクルが生み出されないかが懸念される。
3)汚名の烙印を押されるといった意味があり、心身の障害や貧困による社会的な不利益や差別、屈辱感や劣等感のことをいう。
第三に、認知症の啓発が進むことで、「正常な老い」へのハードルも高くなってしまっている。少し前までは多少の物忘れは老いの一部として受け取られていたのに対して、現在「正常な老い」を支えてきた家族や地域の基盤が崩れる中で、老いの病理のみに注目が集まりがちだ。特に夫婦仲や家族仲が悪い場合、いつ自分が認知症とラベル化されるか分からないとの不安と疑心暗鬼が生まれ、潜在的な家族間葛藤が顕在化しかねない状況がある。自分はいかに健康で、しっかりしているのかを常にアピールしなくてはいけないような、強迫的な相互監視が生まれるならば、それは何とも生きづらい社会だろう。認知症を免れた人が「健康エリート」として、また予防に失敗した人は健康群からの「脱落者」としてスティグマ化されてしまいかねない中、不幸な老いの階層化を避けるためにはどうしたらいいのだろうか?
このような早期診断の「呪い」を解くために、専門医たちは自ら「当事者性」を帯びた存在として語り始めていることにも注目したい。長谷川式4)で有名な長谷川和夫先生がカミングアウトされたように、認知症になってもできること、認知症だからこそできることを語ること――さらに、藤田さんが指摘するように「不便だけど不幸ではない」日々を、生活者の視点から捉え直す動きが生まれつつある。今回のシンポジウムで基調講演を行った北米の専門家、マーガレット・ロック教授は、日本の認知症医たちがこれほどまでに「生身の患者の思い」に寄り添い、現象の微細さや科学的不確実性に真摯に向き合っていることを高く評価された。現在、臨床現場から生まれつつある医師の自省性と、当事者と協働して作る、当事者の語りを統合した新たな「認知症症候学」が、「呪い」を解く大きな鍵となるかもしれない。
4)「長谷川式簡易知能評価スケール」、認知症の可能性があるかどうかを、簡易的に調べる問診項目のこと。
北中淳子「認知症病前診断時代の医療」『老年精神医学雑誌』29(5)2018参照。
本論の基となる研究は科研費基盤B(JP16H03091)と基盤C(16KT0123)の助成を受けている。
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