死ぬ権利は誰のものか?

人間が果たして自分の生死を左右する権利を持っているのかどうかは、人間の自由意思を全面的に認めるかどうかに関係する。多くの宗教では、自殺を禁止している場合が多い。なぜなら、人間を含め全てのものは「神」によって作られ、「神」によって支配されているとすれば、人間が自殺することは許し難いのである。

自然科学が発達し、「神」の存在が低下するにつれて、人間の価値が高くなり、自由意思が尊重されるようになった。道徳は神によって命ぜられるのでなく、人間の自由意思に基づいたものとなったのである。自然科学は同時に、医学の発達も促した。その結果、「死」の定義も曖昧になった。医療が乏しい時代は、食事を取ることが出来なくなれば死ぬ、ただそれだけのことだったのである。医療は当然医療を受ける患者の意向によってその治療が決められるはずであるのに、医療の進歩は、却って患者自身に判断を委ねず、医療技術が「神」の役割を担い、患者の生死を「医学的」に決定するようになったのである。医療によって「生かされている」状態が増加するに従って、患者当人の意思によって、自分の死ぬ時期を決めるべきであるとの考えは、安楽死あるいは尊厳死の議論となった。この状態で、改めて、「死ぬ権利は誰のものか」ということが改めてクローズアップされてきたのである。

死を左右するのは、どのような治療を受けるかに掛かっている。それは呼吸管理を含めた生命維持装置を使用するかどうか、それ以前に栄養管理をどのようにするのか、あるいは、感染症の治療を行うかどうかなどの問題である。この様な場合も、当然の事ながら苦痛を除去する緩和医療は行うという前提がある。

安楽死を除き、終末期の治療を選択する権利が当人にあるのは疑う余地は無い。しかし、現在でも果たして患者本人が自分に対しての治療を選択しているかどうかは甚だ疑問である。2015年に厚労省の作成した、「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」は、患者本人の意思を確認することが強調されているが、反面では、患者本人の意思に沿った医療が十分に行われていない実情が反映しているのだろう。

呼吸管理を含めた生命維持と、それ以前の栄養補給あるいは水分補給の是非、感染症への治療の有無など、これらの治療をどの様にするかについての、直接的希望を述べたものに、AD(事前指示)がある。尊厳死協会が進めている「リビングウィル」、あるいは最近普及してきた「DNAR指示」(蘇生措置の拒否)もある。さらに日本では少ないが、アメリカで普及している「POLST」などは、患者自身が事前に一定の治療指示を文書化しているものであり、諸外国においては法的に保障されている場合が多い。

この中でも特に日常的に遭遇する、終末期の栄養管理と、「死ぬ権利は誰のものか」との関係を考えてみよう。1979年アメリカ、クリーブランドの二人の医師は、食事を摂ることが出来ない人に対して、新しい栄養摂取の方法を開発し、彼らはその術式を、経皮内視鏡的胃ろう術(PEG)と名付けた。この方法を開発したポンスキーとゴーデラの両医師は、小児の回復の為に考え出した方法が、その後、終末期のケアに使われるとは予想だにしなかったことだろう。

1999年に行われた調査では、アメリカのナーシングホームに入居している重症認知症患者の34%にPEGチューブが挿入されている。2005年の推計では、アメリカで年間30万人にPEGチューブが挿入されていて、そのうち22.5万件は65歳以上の高齢者に対してだと考えられている。これは、日本についても同様だ。PEGを行うかどうかは、常に回復の可能性に関する問題が伴う。当然ながら、回復の可能性が高く、一時的な栄養補給が目的であれば、PEGは単なる医療的な手段の一つとして考えられるだろう。

しかし、それ以前に日本では、果たして強制的に生かされることはないだろうか。例えば、手が使えるにもかかわらず、老人ホームでは、「食事介助」によって、食事を高齢者の口元に運ぶことが行われている。食事は、自分の意思で摂取したりしなかったりするのか、あるいは、高齢者自身の意志は甚だ貧弱なので、周囲の人が食べさせてあげないといけないのか、認知症の高齢者には一層疑問が投げかけられる。また、強制的な「水分補給」も当然のこととして行われている。これらは、高齢者は「もうろく」しているので、正しい判断が出来ない。だから施設側が栄養や水分の摂取を管理しなければならないと考えているのかもしれない。

アメリカ医師会機関誌(JAMA)に、優れた医師である、ウイリアム・ヘンゼルによる、リビングウィルが掲載されている。ヘンゼル医師は、家族の事を考えてリビングウィルを書いているのだが、その内容は下記のようなものである。

「もしも、私の中枢神経系が不可逆的なダメージを受け、家族を認識できなくなったら・・・積極的な医療は望まない。医療幇助による死が合法であるなら、私はそれを選択する。そうでなければ、食べ物を私の口元に運ぶ事はやめてほしい。その代わりにその食べ物を私のベッドテーブルの上に置いておけばよい。もし自分で食べれば、私はもう一日生き延びられるわけだし、食べなければ死ぬ。それで良いのだ。」

*この記事の一部は、ウィリアム・H・コルビー著「死ぬ権利は誰のものか」(西村書店)から転用しています。

公益財団法人橋本財団 理事長、医学博士橋本 俊明
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
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