資本主義の限界が見えてきて、経済成長が20世紀後半の輝ける時代に戻れることが出来ないことがはっきりとなって以来、経済成長が国民の幸福と一致している考えは揺らいできました。歴史上、社会の変化や偉大なる人物の出現、テクノロジーの変化などが、人間の幸福にどの程度寄与したかは不明です。しかし、経済成長が高い時代には、「幸福とは何か」についての問いかけは、あまり行われませんでした。ひたすら経済成長が幸福と一致していたのです。ところが、平均的な指標では豊かになった現在の状態では、国民自身も、とりわけ政府は、今までのように景気対策を行いさえすれば、国民の支持が得られるという単純な図式から抜け出す必要を感じ始めています。そこで改めて、「幸福とは何か」について考える必要があるのではないでしょうか。
シリアや南スーダンのような状態で、あなたは幸福ですか?と問うことが出来ないのは明らかです。最低限度の衣食住と安全とが保障されないと、そもそも幸福かどうかを問いかけることも憚れるのです。従って、経済的かつ政治的な安定は、政府が必要とされる所以です。
先進諸国では歴史的にたくさんの犠牲を経て、民主的な政府が出現し、最低限の衣食住と安全とが確保されてきました。その結果、衣食住については経済的な問題が解決されていると考えると、改めて、経済状態以外に幸福とは何かが問われることになるのです。ただし、先進諸国においても日本においても、幸福と経済的状態の関係が解決しているわけではありません。事実選挙では、経済問題は争点の第一になるのです。この対象は、すでに「満足している人たち」です。おおよそ、日本の人口の80%程度を占めている、自宅を所有して(76.9%-2016年、総務省統計局調査)「普通の生活」を送っている人たちです。
政府に対する要望で、常に「景気対策」がトップを占めるのは、政府と国民との間に、相変わらず、幸福の定義が経済的指標と一致していることを表しています。経済成長が望めない状態であっても、これまで通りに「もっともっと」の収入増加を期待するのです。
しかし、現代の一戸建ての快適な住宅に住んでいる住人と、300年前の江戸時代の狭い長屋暮らしをしている住民とは、衣食住のレベルでは大きな差があります。しかし果たして、幸福度はどちらが高いかと問われると、良くわからないのが本当のところでしょう。このことを考えると「もっともっと」の欲求は限りが無いことが分かると思います。
そして、「もっともっと」の欲求は、些細な事項に移りつつあります。この様な渇愛を感じている場合は、多くの国民にとって自分の生活に注目が集まり、低所得者や障害者などへの関心は低いのです。それにもかかわらず、豊かな社会を実現した先進資本主義社会では、政財官学が一体となり、ジョン・ケネス・ガルブレイスの言う「満足の文化」になっています。これらの人の満足度を高めるための政治が行われ、規制緩和や金融の自由化が急務となり、増税につながる福祉の充実や財政再建は放置されるのです。経済学はトリクルダウン仮説、マネタリズム、サプライサイドエコノミクスなどで政策を正当化し、その恩恵が国全体にも及ぶかのように人々を洗脳します。それらは、一定の所得のある人を、もっと満足させるように働くのです。(株価の上昇はその典型である)
最近の状況は、ある程度の経済成長があっても格差の増大のために、一般庶民にその恩恵が行き渡らないことが問題ですし、さらには、貧困や障害者などの弱者が救済されていないことが問題となります。「満足の文化」を享受している人たちは、これら格差の問題よりも、自分たちの老後が不安なのです。マスメディアによって、不安な要素―老後の介護・医療、年金の枯渇などの不安―のみが最重要な問題になっているのです。そこでは、現在先進諸国でも経済的な問題が生じている低所得層10%程度の人たちの問題は、軽視されているのです。
従って、「満足の文化」を享受している人たちは、これ以上の経済的満足の追及をやめて、「もっともっと」の欲求を脱して、人類が成長するためには精神的にも幸福の問題を考える必要があるのです。経済的な指標での幸福の充足を達成できないから、精神的な幸福を、と言うようなものではなく、結局のところ物質的な豊かさではなく、内面の感情的な豊かさが幸福の要因なのです。つまり、幸福かどうかは個人の問題であって、政策の問題では無いことになります。(従って政府がこの様な幸福感について言及すべきではない)個人が幸福になるためには、幸福感を作ることが必要となります。
「もっともっと」が続く間に、人間は死を迎えます。経済的に満たされている間にこそ、人間は永遠の時間に思いを馳せるべきでしょう。もちろん、経済的に困窮している人には、この様な問いかけ自体が無意味であることは理解できますが、一定以上の資産を持つ人や収入がある人までもが、「もっともっと」を追い求める意味はないでしょう。
永遠の時間は、場合によると死後の世界を意味しているのかもしれませんが、多くの日本人にとって(無宗教である日本人)、死後の無に帰する時間は一種の恐怖を与えるのです。この問題の個人なりの解決を図り、幸福の意味を追求することが、今後の日本人の目指す道かもしれません。
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