ある所に善良な男がいました。男には可愛い奥さんと生まれたばかりの女の子がいました。男は父親の代からの工場を経営していました。男は正直で、身を粉にして働いていたにもかかわらず、次第に経営に行き詰まり、遂に3億円の手形決済が難しくなりました。手元には父親から受け継いだ骨董を売って工面した3000万円が有ります。なんとか金策をしなければ愛する家族との暮らしが成り立たなくなります。この3000万円を元手に3億円を作るにはどうしたら良いか、コンサルタントを訪れました。コンサルタントは、300万円のコンサルテーションフィーを受け取ったあと、次のように言いました。
「2700万円でビッグジャンボを買いなさい。ビッグジャンボが当たれば前後賞合わせて3億円です。宝くじは必ず当たる人が出ます。信じて買うことです。」
男は全財産で宝くじを買いました。でも当たりませんでした。
皆さんはどう思われますか?ひどいコンサルタントだとお思いでしょうね。
ではこれはどうでしょう?
ある所に善良な男がいました。男には可愛い奥さんと生まれたばかりの女の子がいました。男は父親の代からの工場を経営していました。男は正直者で、酒も飲まず健康に気を付けていたにもかかわらず、ある時進行した胆道がんという診断を受けました。何とか手術を受けて成功したものの、再発してしまいました。それでも何としても治さないと、愛する家族との暮らしが成り立たなくなります。再発した胆道がんを治したい一心で、著名な医師を訪れました。医師は次のように言いました。
「抗がん剤を投与しましょう。効果があれば進行を食い止められます。効果があったという報告があります。希望を持って治療することです。」
男は抗がん剤の治療を受けました。愛する家族と別れ、長期間入院しなければなりませんでした。抗がん剤の治療は苦しく、副作用がずっと続きました。治療による副作用の治療のためにさらに入院期間は延長し、男は結局治癒することはなく入院先の病院で死んでいきました。
どうでしょうか?どこかで聞いたことのある話ではありませんか?
アトゥール グワンデ の「死すべき定め」の序文です。
数年前に妻を亡くしたラザロフは、ICUで亡くなった妻のような苦しみは味わいたくないと、常日頃訴えていました。今は彼自身が全身に広がったがんに苦しんでいます。体重は減り、腹部や陰嚢、下肢は浮腫のために膨れ上がっています。ある日、目が覚めると右足が動かせず、便は垂れ流しになっていました。病院に担ぎ込まれ、がんが脊髄を圧迫していることが明らかとなりました。医療チームはがんを治すことはできないが脊髄圧迫を治せると考え、放射線治療を行いました。しかし、がんは縮小しませんでした。そこで主治医の神経外科医は2つの選択肢をラザロフに提示しました。「緩和医療」か、それとも脊髄の腫瘍を取り除く「手術」か。ラザロフは「手術」を選びました。
インターンのガワンデは、ラザロフが手術のリスクを理解し、手術を受けることを受諾するサインをもらうために病室を訪ねました。
ガワンデはどうやってサインをもらうかを考えていました。ガワンデは手術によってがんが治るわけではなく、麻痺が元に戻るわけでもなく、以前のような生活に戻れるわけではないことを知っていました。医療チームが何をやったとしても彼の命はもって2、3ヶ月です。手術自体に危険が伴い、出血も多く、合併症のリスクも高い。しかし主治医の神経外科医は、今までもこのような危険を乗り越えてきたし、ラザロフは手術を受けたいとはっきり言っています。ガワンデの役割は意志を確認してサインをもらうことです。(中略)ラザロフの選択は間違っているとガワンデは思いました。そう考える理由は手術に伴う危険ゆえではありません。手術によって彼が本当に欲していたこと、失禁が止まって、体力が戻り、元の生活に戻れる、それが得られるチャンスがなかったためです。長く苦しい死のリスクと引き替えに、ほとんどファンタジーとしか思えない希望を、ラザロフは求めていたのです。
そしてラザロフが手にしたものは長く苦しい死、そのものでした。
手術自体は技術的には成功でした。8時間半以上の手術によって腫瘍は除去されました。しかしラザロフが手術から回復することはありませんでした。ICUで呼吸不全が起こり、敗血症になり、長期の安静によって血栓が生じ、さらにそれを治療するために使った抗凝固剤のために出血が始まりました。14日目、息子がもう止めてくれと医療チームに訴え、人工呼吸器を止める役割がガワンデに回ってきました。呼吸チューブを抜いた時、ラザロフは2、3回咳き込み、瞬間、目を見開き、そして閉じました。
ガワンデは胸に聴診器をあて、鼓動が止まって行くのを聴いていました。
ガワンデには10年以上経った今でも心に引っかかっていることがあります。ラザロフの選択が間違っていたかどうかではなく、手術という選択肢について正直に話すのを医師達が避けていたことです。治療によって生じる特定可能なさまざまなリスクを説明することには何ら困難を感じませんでした。しかし病気そのものの事実には一度も触れなかったのです。腫瘍医や放射線科医、外科医、他の医師の皆が何ヶ月もかけて、治せないと知りつつ彼の診療をしていました。人生の終焉に近づいた時、彼にとって最も大切なものは何かについて取り上げませんでした。もし彼が妄想を追いかけていたとしたら、それは医師達も同じです。患者が以前のような生活に戻れる可能性はゼロです。しかし、このことを認めたり、慰めたり、導いたりする医師はいませんでした。患者が耐えられる間はまた別の治療を施すだけでした。そうすればもしかすると、とても良いことがいつか起こるかもしれないから。
医師は病気を治すことを大学で教えられてきました。しかし、治らない病気に対してどのように対処すべきかについては医学部では教育されてきませんでした。専門職として求められているのは疾病の原因を探し出し、それに対する適切な治療法を選択し、そしてその治療を行うことです。その引き出しが多ければ多いほど専門職としての能力は高いと考えられるため、それを増やそうと努力します。できる限りのことをする、「最善」を尽くすことが医師に求められているのです。AがだめならB、BがだめならCと次々に治療の選択肢を提供することが「優れた医師」となるわけです。医師は良い医師たらんと、いつかいいことが起きるのではないかと期待しながら、しかしいいことは多分起きないであろうことを心の中では知っていながら、「最善」を提案するのです。
責任は医師のみにあるのではありません。一方で、患者さんも家族もそのいいことを期待しながら「最善」のみを希望しているのですから。
しかし、それはしばしば「最善」という名の「最悪」なのです。
文献 アトゥール・ガワンデ著 死すべき定め 死に行く人に何ができるか 原井宏明訳 みすず書房
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