突然ですが、皆さんは「フェア・イニング(fair inning)」という言葉を耳にしたことがありますか。なんとなくフェアはフェアプレイと関係ありそうだし、イニングというのは野球用語そのものだから、何か野球と関連した言葉なのかなと思われたかも知れません。
フェア・イニングのイニングは、まさに野球のイニング(回)のことです。フェア(公正)なイニングとは、試合の際に、十分に両チームとも力を出し切ることができる時間が、例えば9イニング(回)ということを指しています。もともとは、英国や英連邦で盛んなクリケット(野球の起源になったという説もあります)のルールから来ているらしいのですが、野球のイニングをイメージして下されば良いでしょう。
さて、このフェア・イニングという言葉に託して、高齢者は若者に比べて医療資源配分上、不利に扱われても仕方がないのではないかという考えが、フェア・イニング論です。
たとえば、新型インフルエンザのワクチンの供給量が限られている時に、それを接種する優先順位として、高齢者を後回しにするのは相当うしろめたいし、実際そうした政策をとると、「高齢者差別である!」と激しい反発を招く恐れがあるでしょう。
そこで登場するのが、このフェア・イニング論です。
20歳の若者が新型インフルエンザに倒れるのは、野球で言うとまだ打席が1回も回ってこないまま、退場を命じられたようなものです。一方、70歳の高齢者が、ワクチン接種が叶わず、新型インフルエンザで命を失うのは、野球で言うと9回を十分にプレイした後に起きる出来事と考えるわけです。
そこでまず、頭の体操として次の二つの治療を比べてみください。二つの治療法の費用は同じであり、どちらの治療も、患者を元の元気な状態に戻すことができます。でも、あなたはどちらか一つの治療法しか選べない、という条件です。
①20歳の患者に対する治療
②70歳の患者に対する治療
どうでしょうか? これまで見てきたように、たいていの人は、①を選ぶのではないでしょうか。フェア・イニング論などという難しいことを言わなくても、平均寿命が80歳とすれば、20歳の患者はこの治療を受けるとその後60年生きることができるが、70歳の患者はあと10年しか生きないから、若者を優先すべきだというのが一般的な考え方だと思います。
それでは、次のケースはいかがでしょうか?
③20歳の患者の治療。治療を受ければあと10年生きる。
④70歳の患者の治療。治療を受ければあと10年生きる。
それでも、③を選ぶ人は多いと思いますが、この場合は、余命は全く一緒です。生命の延長効果には差はありません。若い人の方が長生きする(治療効果が長く続く)から、③を④に優先するという理屈は成り立たなくなります。治療効果上は③と④に差はありません。
一方、フェア・イニング論の立場に立てば、この場合でも③を優先すべきということになります。つまり、20歳の患者は、まだ十分な(フェアな)イニングを経験していないけれど、70歳の患者は十分なイニングを経験しているのだから、ここは、20歳の若者に優先権を譲るべきだと考えるわけです。
フェア・イニング論を唱える人達は、人生にはフェアなイニングと見なされる長さがあると考えています。例えば、学校を卒業して、キャリアを積み、結婚して、子供が成長する。成長した子供が新たに家族を持って、さらに子供が生まれるという人生の長さがフェアだとすれば、それは70年くらいでしょうか。ところが、20歳の若者は、いまだこうした経験をしていません。70歳の患者は9回裏まで野球をすることができたのに、20歳の患者は、まだ2回表かもしれません。それでは十分なイニングを享受したことにならないのです。
それではいかなる場合も、とにかく若い患者を優先すべきなのでしょうか?次の2つの治療法を比較してみましょう。
⑤30歳の患者の治療。患者はあと10年生きる。
⑥60歳の患者の治療。患者はあと10年生きる。
これも、⑤の方が優先される感じがしますが、フェア・イニング論の原則に忠実に従うなら、60歳の患者の治療が優先されることになります。何か変ですが、フェア・イニング論者なら、70歳というフェア・イニングを全うする可能性のあるのは、⑥の治療法だけなので、これが優先するのです。
野球を9回まできちんと終えることができるのは⑥であって、⑤ではありません。ここが、フェア・イニング論と、単なる若年者優先論の違いになります。でもみなさんは、この結論に違和感を覚えるのではないでしょうか?
生存期間延長にかかる費用が多いか少ないかを考えるのが医療経済評価とすれば、高齢者は、若者に比べて余命が短いことから、かけた費用の割に効果が少ないことになります。そうした評価の結果、高齢者の治療が後回しにされるので、医療を経済的に評価することは、結果として高齢者差別につながるという批判があります。これに対して、これまで見てきたようにフェア・イニング論を援用して、それでいいのだ。結果として若者が優先されることは理にかなっているという風に反論することが可能です。
しかし、功利主義(「最大多数の最大幸福」全体としての幸福が最大になるような判断が正しい。限られた資源を最も効率的に使うことを目指す。)に基づく医療経済評価と、フェア・イニング論は、依って立つ理屈が全く違います。ちなみに、功利主義なら、③④⑤⑥は全く同じで優劣が付けられません。
ただ高齢者を対象とする場合、両者の結論が一致(高齢者が後回しにされる)することが普通なので、どちらの立場に立っても、その判断は正当化されるという風に使うことのできる理論かも知れません。
今後、医療財源の逼迫と医療費高騰の中で、結果として高齢者差別ではないかといわれる判断がなされる場面が生じてくる可能性は否定できません。例えば、高齢者の余命をわずかに伸ばすために超高額の抗がん剤を使用する場合、保険での償還は行わない政策が選択される恐れはあります。そうした際に、皆さんも、もしかしたら「フェア・イニング論」という言葉をお聞きになることがあるかもしれません。フェア・イニング論によって、こうした政策が正当化できるかどうかは疑問の多いところですが、皆さんのお考えはいかがでしょうか?
※この記事は、岩波書店「誰の健康が優先されるのか 医療資源の倫理学」(グレッグ・ボグナー、イワオ・ヒロセ著)第4章「差別の問題」を参照しています。
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