「先生、これはどれくらいでできるもんですかね。」
検死に呼ばれた私が、迎えのパトカーから降りてすぐ、挨拶もそこそこに発せられた質問でした。
警察署の検視場には、いつものように一本の線香から立ち上る煙がその場に漂う独特の臭いを和らげてはいるものの、死亡して何日も経ち既にミイラ化しているのではないかと思われるほどに痩せこけた老女の遺体が『ゴロン』といった感じで置かれていたのでした。
何の情報も貰っていない私には、「そうですね。数日でできるといったもんじゃあないし、全体の様子からはそれなりに時間が経っているとしか思えませんが」と、答えるしか言葉がありませんでした。
何ができていたか。
それは、左半身のいくつかの突出部に生じた褥瘡(じょくそう:長期間の圧迫により血液の循環が悪くなり、組織が腐って潰瘍を形成した状態)でした。長い間、十分な栄養を取れていなかった事を示すように痩せ衰えた身体に加えて、左耳は黒く変色しており、左肩の上腕骨頭部では傷の中央に骨が露出し、さらに骨盤部の左側でも骨の露出を伴う広範な皮膚の壊死と皮下膿瘍も認められています。しかもそれが乾いてきている事から、相当の期間、身体の左側を下にしたまま動いていなかったと考えられました。
検視のために、敢えてそうした変化が見られる左側を上にして置かれていたわけですが、観る者が診ればすぐに分かるといった所見ではありました。
流石の検視官達も、あまり見たことのない傷のようで、事件性も視野に入れて呼び出された県警本部の上級検視官が、露出した骨をピンセットでつつきながら私に問いかけた質問だったのです。
この事案は、私が呼ばれる数時間前、家族が異変に気付き救急車を呼んだのですが、駆け付けた救急隊員によって心肺停止を確認され(というより、その異様さで)、警察への通報となったのでした。呼ばれた警察官により異変が報じられ鑑識係の出番となったのですが、そこで問題となったのが先の褥瘡でした。
亡くなった方は娘さんと二人暮らしで、第一発見者と通報者もこの娘さんでした。それにしても傷の手当ての様子もなく、異常なまでの痩せ方やその傷の異様さに、警察官が事件性の有無を問題にしたというのが実情だったようです。
家族が居ながらこうした状況に至るとすれば、所謂家庭内暴力ではないまでも、保護者による保護遺棄致死に相当するのではないかという問題が発生するわけで、警察医として遺体を見慣れた私でさえ『何故ここまで』と驚愕しました。
娘さんから事情を聴いている刑事からの情報が刻々と伝えられる中で、事件性の有無や死因が検討されました。しかし娘さんも既に70歳に近い高齢で供述に辻褄の合わない点が多くあり、近所の方からの聞き込みでも日頃の言動に認知症を疑わせる情報や報告が出てきました。
このため、刑事課の方で検討がなされ、結局のところ、保護遺棄致死までの責任は問えないという判断が検死場に居る私たちに伝えられました。そして、今回の傷は、「生前に何らかの理由で動けなくなり、そのまま長い期間左側を下にしたままで居れば発生してもおかしくない」という私の意見と併せて、死因は「老衰」とする事で決着したのでした。
実は、この方は以前に、私が外来で診療させて頂いており、ある時からぷっつりと来院が途絶えていた方でした。こうした場合、近くの医療施設に掛かられていたり、ご家族の関係で引っ越しをされている事もあり、当方から問い合わせまではできないのが実情です。
病院に帰り、出てきたカルテを前にして、警察医を拝命している事からこの方の検死が私に回ってきた偶然を思い、最期にお会いしたのも何かのご縁だろうと感じながら、死体検案書を書かせて頂く事になりました。
それにしても、昨今耳にする老老介護の現実を突きつけられたような気がして、何とも辛い思いの残る検死ではありました。そして遺された娘さんの今後が気掛かりです。
これから先、こうした事案が、日本国中で増えてくるのではないかと心配しています。
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