つい先日、私の知人が米国のサンノゼで出産しました。36週の早産でした。出産は37週から41週が正期産とされていて、それより早く生まれた早期産あるいは早産では、身体の機能に未熟なことがあると言われています。
出生児は幸い2500gあり、医学的な問題は特に認められなかったとのことでした。
キャサリン妃の出産などでも報道されていますが、欧米での出産は1-2日で退院するのが普通です。知人の場合今回は早産ということもあり、入院して経過をみることになったようです。2日ほどNICUに入院してその後一般の病棟に移りました。早産なので破水から出産までは約1日と短かったのですが、入院時からモニターを着けて厳重に監視することは我が国とほぼ同じであります。無痛分娩が一般的な米国ではお産が始まると麻酔科医が待機して施術し、出産となります。米国の出産も人生の一大イベントであることは我が国と変わりなく、夫は仕事を休み、付きっきりで妻のそばにいることが求められます。ラマーズ博士の教えを守り、背中やお腹をさすりながら妻を励まし陣痛を和らげます。
「それ、本番!」となると、今度はプロが夫に代わってグイグイと産婦のお腹を押して無事赤ちゃん誕生となるわけです。
早産では肺の機能が問題となります。サーフアクタントという物質が十分に作られないと、肺胞が潰れてしまい、呼吸をしても酸素の取り込みが上手くいかないことがあります。水には表面張力がありシャボン玉ができますが、これに洗剤を加えるとシャボン玉はできなくなります。サーフアクタントが無いのはこの洗剤を加えた状態と同じなのです。ですから、肺胞がシャボン玉と同じように丸く膨らまないために酸素が巧く入ってこないわけです。
今回も、早産ということで出産前にステロイドを投与してサーフアクタントの産生を促し、出産後は念のために肺胞を十分に機能させるためのサーフアクタントを投与し、短期間マスクをつけて呼吸を手助けしたようです。
新生児には黄疸が見られることがあります。新生児黄疸と呼ばれ、通常の経過を辿れば自然に軽快するのですが、今回は「入院中についでに紫外線照射をしておきましょうね」と言われ、照射をしたとのことでありました。幸い新生児黄疸も軽く済んだようです。
入院最終日には夫も病室に泊まり込みました。夜中に乳児が起きた時に、どのようにお乳を与えるかを練習するためなのだそうです。タオルは使い放題、手袋も毎回使い捨て、おしめもふんだんにもらえ、ボランティアが編んだ手編みのブランケットや帽子、搾乳のための電動搾乳機(日本では聞いたことがありませんが、牧場でホルスタインのお乳を絞る機械の小さい物です)をもらって車に入りきれないほどのお土産、なんとアメリカの病院は気前が良いのかと感激したそうです。
ここまでは通常のお話ですが、今回の本題。さて、この2週間の医療費はいくらだったとお思いですか?
22,000,000円!
でした。22万円でもなく、220万円でもなく、2200万円です。私たち日本の医療従事者からすると、どうするとそんな計算になるのか不思議でなりません。日本では正常産は自己負担ですが、東京のセレブ病院でも考えられない値段だと思います。医学的必要性があると判断された場合には、日本では保険医療となりますから自己負担は数万円です。全米全体ではどれくらいの方が早産で入院して出産しているのかを考えると、とんでもない額になります。
入院当初、NICUに居た時に隣にいた赤ちゃんは、その後心臓の手術を受けたそうです。どのような手術を受けたのか詳しくは聞いておりませんが、その請求額は聞いております。300,000,000円でした。この数字の並びを見て、これがいくらなのかがすぐに分かる方はそれほど多くないと思います。3億円です。以前からNICUとかICUの入院費は高い、米国の医療費は高いと聞いておりましたが、それを実感した出来事でありました。
来年は診療報酬の改定が行われる予定です。ご存知のようにわが国では国民皆保険の下に、様々な医療行為についてその値段が定められています。同時に、薬品や医療材料についても国がその値段を決定しています。
我々は医療保険が有ることが当たり前と感じています。我々が呼吸している空気や飲んでいる水と同じように、そこに存在するのが当然であると感じています。しかしながら、現在の国民皆保険が整ったのはついこの間、昭和36年のことです。多くの人が忘れているか、知らないのですが、それまでは多くの国民が医療費を払うことに困難を覚える状況が続いていたのです。医者に掛かるのは死んだ時だけ、死亡診断書が要るから、というような状況がわが国でも存在したのです。
日本経済の高度成長とも相俟って自己負担の割合も5割から3割と次第に減り、本人だけでなく家族にも保険の恩恵が及ぶようになりました。高額療養費制度も完備して、我々にとって病気になっても安心できる制度が整えられたのです。
このような国民皆保険の存在があるからこそ、日本では医療の値段が国によって定められているのです。例えば虫垂炎の手術は周囲に膿が無い場合は6210点、有る場合は8880点です。医療保険から医療機関に62,100円あるいは88,800円の支払いが行われるということです。このうち1割負担の患者さんは6,200円あるいは8,800円を支払うわけです。ひょっとすると命に関わる医療費が、居酒屋の支払いとそう変わらないのです。
この値段は虫垂炎手術が行われるようになった時に設定された値段とあまり変わっていません。大学卒初任給が1万円足らずの時に設定された値段を基本に、少しずつ増額されているのです。新しい手術法が開発されて保険に収載されると、その時の物価を鑑みて手術料が設定されます。古くからある技術の値段はいきおい安く、新しい技術は高いというわけです。
ところが手術料が高いからすなわち病院の利益になるとばかりはいえません。近年はディスポーザルの器具を必要とする手術が増えたために、赤字となる手術も増えています。前立腺癌のダビンチ手術は95280点、952,800円です。一見高額なようですが、この手術には高額なダビンチ(3億円位します、すべて特許の関係で米国製です)や手術器具の導入費用を必要とするためほとんどの施設で赤字です。
国が手術点数を設定する際には人件費や施設整備費などは考慮せず、医療費を低く抑える意思が働いているからです。「医は仁術」というのは日本の専売特許です。この手術は赤字が出るので行わないと大っぴらに宣言している病院は今の所無いようですが、やればやるほど赤字が増えるなら、今後は知らない内に手術を制限するところが出てくるのではないかとも考えられます。
一方で、米国での虫垂炎の手術料はだいたい150万円から300万円と言われています。米国の医療費は病院が設定しているのですが、これは多くの医療従事者の人件費、施設費、管理費などを積算して算出されています。赤字になることを目的として値段を設定する営利企業は無いからです。さらに民間保険会社と病院が交渉して、保険会社が支払う手術費を設定しています。同じ虫垂炎手術でも有名なA病院とそうでもないB病院では値段が異なるのは通常のことです。人件費や地価の多寡によりマンハッタンの病院とアイダホの病院では医療費が違うのは至極当然なのです。保険会社も利益が出ないことはしませんから、ある州では保険を引き受けないということもありますし、保険会社が提携する病院を指定していますから、患者さんが主治医を選ぶこともままならないのが現状です。そもそも、民間保険の掛け金が高いために無保険者が4000万人以上も居るというのが現実です。
少し前、WHOが日本では安価で効率が良い医療が行われていると報告しました。その裏側には、国民皆保険で医療へのアクセスが良い、保険医療で診療行為の値段が低く抑えられている等の理由がありました。
実は国民保険の導入時に、それまで自由診療を専らとしていた医師会が、診療報酬を低く抑えられる可能性があるために導入が見送られたという経緯が有ったとも聞きます。
我々日本人は医療費が安いから気軽に医療機関を受診し、薬剤も気軽に貰っているという傾向があるように感じます。薬局で湿布を買うと高いから病院でもらう方も多く居るようで、高齢者では多くの医療機関から薬剤をもらい、ポリファーマシーという状況も多く見られます。
このような受診行動とそれを許す医療機関がさらに医療費の増大を来たし、医療の逼迫を招いてしまうという悪循環が見られるのです。
しかしながら、安価で安全な医療があるのにそれを求めるのを遠慮しろという議論には、少し無理があると思います。やはり持続可能な仕組みを作ることが求められていると思います。「悪いとわかっていてやめられない」「あそこでこうしとけばよかった。」というのはよく耳にします。その結末も容易に想像できます。政策においても同じで、改革を行わないといけないとわかっていてもできなかった国は、衰退の道をたどってきたのは歴史が証明しています。【フランシス・フクヤマ(米・政治学者)著『政治の起源』より】
次回は医療の値段についてもう少し考察してみようと思います。
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