「生産性向上」を目指すよりも大切なもの

経済の低迷が続く日本では、対人サービス業において、「生産性向上」を第一の目標として目指したとしても、成功しないだろう。対人サービス業の分野に携わる経営者は、製造業あるいは非対人サービス業とは、業務の本質が異なることを理解しなければならない。なぜなら、対人サービスでの収益性を高めるためには、構造を残して個別の業務を改善しようとする「生産性の向上」の考え方でなく、時代とともに変化した人間の欲求を実現させるように構造自体が変わっていかなければならないからである。

では、構造自体の変化とはどのようなものか? 経済が低迷する場合、あるいは業績が捗々しくない時に、最も必要なことは、現状が多くの人の欲求を満たすような構造になっているかどうかを見定める必要がある。問題は、どのような状態を人々は望み、その実現を必要としているのかにある。その考えの根底には、社会の変化が反映する。例えば、障害者に対する社会の見方の変化、男女間の権限についての変化、高齢者自身の生き方の変化、子供に対する教育的環境の変化などである。

変化する状態に構造を適合させることが、ボーモルのコスト病※を克服するための方法だ。つまり、対人サービスを進化させるのは、個々の改善というより、サービスの構造、あるいは業態自体の変化となる。そのポジションが定まった後に、個々人は実現のための効率的な方法を探す。

現状は肯定するものではないことを前提としなければならない。社会の構造は変化しており、その構造に基づくポジションは現状とは異なるからだ。生産性の向上を考える時に、ポジションが定まっていない状態で、「現状」を前提とした「生産性」を考えると、現状肯定につながる。DX投資も、当然のことながら、手段からは抜け出すことは出来ないし、どのような社会環境かが定まらない状態では、DX投資も、かえって現状を追認する道具になってしまう。

ただ、変化したことを見定めてサービスを変えるか、あるいは、欲求を捉えて変化する前にサービスの変更を仕掛けるかは事業者の意欲の問題だ。長年の習慣は意外に強いので、当然と思われる欲求も表面化しない可能性もある。例えば、高齢者の欲求は、昔からの「高齢者像」を脱して、個別の自由を目指しているかもしれない。しかし、他方では、高齢者自身も、長年の構造を是認する生活、つまり、生の生き生きとした欲求を出さないで、長年制約された習慣にとらわれている面もある。高齢者の自由から考えると、どんなに介護体制が良い老人ホームでも、個人の自由は制限される。なぜなら、極めて優秀な老人ホームでは、平均的に穏やかなことや、危険の少ないことが推奨されるからである。そこには個人の欲求が登場することが出来ないし、自由よりも安全が優先されるだろう。長年の老人ホームの習慣が是認される場合も多い。老人ホームでは夜間の見回りが問題となるが、自己管理している高齢者においては、わざわざ見回って安否を確認することは不必要であり、緊急時の連絡手段さえ確保されていればよい。また、個人の生活や食事に干渉することは、統計的な視点からの平均的態度から割り出されたものだが、それは個人ごとに自分の生活史から考慮されたものとは異なるかもしれない。

一般に生産性を対象とするのは、「生産現場」や「ものを扱う場所」なのであって、対人サービスは生産性とは関連性が乏しく、これがボーモルの言う、コスト病なのである。この状態を前提とした改善が必要だ。改善するためには過去の慣習から抜け出し、欲求をもとにした新しいサービスの考え方を作り出さなくてはならない。つまり、人間の欲求が表明され、それによって満足できるとすれば、何ら対人サービスの援助は必要ないのかもしれない。現在の構造を温存して、その構造を守る前提での改善は、対人サービス業においては不可能だし、返って現状の構造を強化することにもつながるのだ。

ボーモルのコスト病;ボーモルは、ベートーベンの弦楽四重奏を演奏するのに必要な音楽家の数は、1800年と現在とで変わっていないということを指摘した。他方、自動車製造部門や小売部門のような商業部門では、技術革新によって絶えず生産性は上昇している。それに対して、実演芸術や看護、教育のような労働集約的な部門では、人的活動に大きく依存しているため、生産性はほとんどあるいはまったく上昇しない。ボーモルのコスト病は、公立病院や公立大学のような公共サービスの生産性が上昇しないことを説明するために、用いられてきた。

公益財団法人橋本財団 理事長、医学博士橋本 俊明
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
  • 社会福祉法人敬友会 理事長、医学博士 橋本 俊明の記事一覧
  • ゲストライターの記事一覧
  • インタビューの記事一覧

Recently Popular最近よく読まれている記事

もっと記事を見る

Writer ライター