インディビデュアリズム(個別主義)は、日本で評判が悪い。エゴイズムと同じ様に取り扱われる。反対語は 「集産主義」(collectivism)、あるいはもっと進むと「全体主義」(totalitarianism)だろう。しかし、日本の場合、インディビデュアリズム(個別主義)の対立語は、保守主義(conservatism)が相当するかもしれない。
近代の自由な世界では、個人が欲求を実現させることが最も大切であり、それ以外に個人的にしろ、公共的な問題にしろ、価値が高いと判断すべき基準は見当たらない。ヘーゲルも「法の哲学」の中で次のように言っている。「人間世界のルールは、その最初が「私はかくありたい」という個人の自然な欲求に基づく意思こそ、近代の「善」の本質をなすものである」。この様に述べると、個人のわがままと、公共の規則とは衝突することが多いのではないか? という疑問が生じる。例えば、電車の中で大きな声で叫ぶ人(個人の欲求)は、他の人に大きな迷惑をかけているのではないか? このような反論はもっともだが、電車の中で大声を出す人は少ないし、大声を出したくても他人の迷惑を考えて、控える人が多いだろう。そして、仮に大声を出す人がいても、他の人が「素直」に、自分の欲求を表明し、大声を出す人を注意すれば(多くの人がそのような欲求を持つだろう)、大声を出す人の欲求は控えられる。そう考えると、個人の欲求を出せと言われても、無茶な欲求は登場しない。むしろ、個人が欲求を表明しないほうが、ある特定の人の無理な欲求を通して(例えば電車の中で大声を出すなど)、社会問題となる可能性が高いのだ。そうであれば、個人の欲求以外に公共的に守るべきものがあるとしても、それは個人の欲求が多数の人の欲求となったもの、あるいは、個人の欲求が他者の欲求と調和した結果に過ぎないだろう。自分や家族の欲求よりも公共の福祉を優先する考えは、何らかの基準がないと理解しづらい(憲法に公共利益のため、個人の自由を制限する条項の挿入は不適当だ)。アリやミツバチの世界のような世界は人間には理解できないし、前もって何らかの基準があるとすることは、神を持ち出すことと同じである。
個人の欲求は普通そのままでは実現することが出来ない。欲求は常に他者との関係の場に出される。この時点で無理な欲求は自ら放棄され、そして、他者との話し合いが行われ、多少の説得や交渉が行われる。あるいは既存の慣習も個人の欲求と対立するかも知れない。欲求は全体が実現するわけではなく、部分的に採用されるか、あるいは、形を変えて実行される。時には、欲求を取り下げる必要が出てくるだろう。欲求の出現と取り下げの「繰り返し」は、人を柔軟にし、神や権力者の介入余地をなくす。この点が大切だ。何事も経験することが必要なのである。さらに、多くの人に関わるような問題では、話し合いは個人でなく、集団で行われ、選挙という方法でも解決する。これが、インディビデュアリズム(個別主義)のやり方だ。もちろんそれまでに決められている法律(ルール)は尊重するが、必ずしも将来そのルールに従わなければならないわけではない。法律(ルール)は変えることができる。社会は何らかの集団や、団体の集合体でなく、個人の集合体が社会を作ることが、インディビデュアリズム(個別主義)の核心である。
個人が欲求を抑え、控えるのはどのような場合か? 欲求が最初から他人に不利益を与えることがわかっている場合は、欲求は自分の中だけに留まるかも知れない。あるいは、欲求を表明することが、他人に不快感を与え、自分にとっても不利益につながることもあるかも知れない。この点は非常に重要で、確かめる必要がある。欲求が他人に不快感を与えることを恐れ、それを持ち出さない場合、はたして欲求が不当なのか、あるいは欲求を持ち出す「勇気」がないのか。「勇気」がなければ、既存の保守的雰囲気を認めることにもなる。
ジグムント・バウマンは、『リキッド・モダニティ――液状化する社会』で、無力化された個人の問題を取り扱い、個人が定着することのなくなった社会を問題としているが、むしろ、このような液状化、つまり、個人単位での社会の構成が、一旦は必要となるだろう。一人ひとりが他者に依存しない自立心を、まず身につける必要がある。そのうえで、必要な場合には、社会的救済が迅速にかつ十分に個人に対して行わなければならない。つまり、制度や慣習に依存して、個別的欲求を表明しないか、あるいは、その欲求を常に慣習を持ち出して否定する側に回ることが問題となる。この点から見ると、「保守主義」の良い点は十分にあることは確かだが、日本ではインディビデュアリズム(個別主義)はやはり、保守主義に阻止されている可能性が高い。個人が自分の欲求を自由に表明できる社会か、あるいは、慣習が重要な地位を占め、変化することはできるだけ避けることを良しとする社会かで、今後の進むべき道が大きく分かれるのだ。
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