近代科学を梃子にした資本主義によって、人々の欲求は満たされ、苦しみは少なくなると考えられていた。しかし、この時代には衰退するだろうと思われていた宗教は、依然として存在感を示している。宗教が未だに大きな存在感を示しているのは、苦しみを抱えた人たちが数多く存在し、宗教はそれらの人々の救いになるからだろう。苦しい境遇に陥ると、人々は救済者(預言者)を求める。ブッダにしろ、キリストにしろ、宗教家と言うより救済者(預言者)であった。現状の社会の矛盾に対して、どのように向き合い、行動していけばよいかを考え、多くの人の共感を得たのである。
しかし、ブッダやキリストの死後、教団が辿った経過は、当人たちの考えとは大きく異なる。なぜなら、救済者(預言者)たちは、自助努力を促し、自己の内面を探る努力を求めたのに対し、苦しんでいる人間は常に超越的なもの(神や仏、絶対的な権力者など)にすがる傾向(依存的傾向)を示したのだ。天上天下唯我独尊などの考えは、一般には受け入れ難いものなのである。ブッダは弟子たちに、「自らが自らのよりどころとなり、決して他人を頼らず他人から助けを求めないように諭した」と言われるが、ブッダの教えが宗教となり、さらに大乗仏教になると、人々に救済を与える超越性(神や仏、絶対的な権力者など)が登場する。考えてみると、宗教にはもともと超越性が必要なのだ。人間の依存性が超越的存在を求め、宗教を生むのである。最澄、空海によって日本にもたらされた密教は、大日如来に超越性を持たせているし、鎌倉時代に入り、活躍した法然は、他の一神教と似たような体系を編み出した。つまり、ひたすら念仏をとなえると、仏によって救われるというのだ。極めて一神教的である。
この様な宗教的伝統から少し外れているのは、親鸞と道元である。親鸞は、法然の一神教的な考えが理解できないと言う。阿弥陀如来の考えから離れて、念仏を唱えても、果たして浄土へ行くことが出来るかどうかはわからないと言っているのだ。この考えは不穏当な考えであり、宗教的には問題である。また、道元は、日常の行動そのものが実存(宗教的実践)であることを示し、実存(宗教的実践)よって考えをまとめる重要性を示した。つまり、超越性を否定しているのだ(超越と実存-南尚哉)。
しかし、親鸞や道元の考え方にも拘らず、宗教には超越的な存在が必要なのであり、それを否定すると宗教にならないという。超越性を排し、世界を実存的に理解しようとすれば、理屈を超えた洞察が必要らしい(例えば瞑想など)。親鸞は念仏を唱えること、道元は座禅にて、瞑想の実践としたようである。
18世紀から起こった「科学の世紀」には、宗教の役割は終わったかのように思われた。科学は不条理な死に対して、それが細菌やウイルスが原因であり、阻止できることを突き止めた。人口増大に伴う食料不足に対しても、初期には肥料の改良によって、近年は遺伝子技術を用いて危機に立ち向かった。これら、不合理なもの、不条理なものに対して、科学はその能力を使い、人類を破滅から救済したのである。しかし、未だに科学の力を持ってしても解決できないものがある。先進国においても現れる大きな格差、貧困から抜け出すことが出来ない多くの発展途上国、そして、為政者の横暴に苦しむ民衆たちである。経済的に満足している人にも、急な肉親や親しい人の死、心理的な苦悩を感じること、そして自分自身の死など解決できない問題がある。
現代の宗教は絶対者を想定し、民衆の依存性を高めるものでなく、社会の不安や格差を見据え、そして、個人の問題に向き合うべきだろう。ブッダによると、これらの困難さに対する解決法として、無常、苦、無我の考えがどうしても必要だという。無常や無我の考えは、哲学的論理性と親和性が高い。しかし、学問的、論理的には理解できて、他の人にはその理由を訴えることは出来るが、本当に理解できているかといえば、それは疑問である。理解するためには、仏教的な瞑想により、論理から飛躍した立場が必要になるのだろうか?
客観的に考えると、宇宙や地球の出来た時代(138億年前や47億年前)から、地球上には人類も含め、数え切れない(数億の数億倍に及ぶ)生物が存在した。今このことを考えている人もその中の極小の点に過ぎない。そうすると、大切にしている自我(これは進化の過程で備わったもの)は何ほどの価値があるのかと考えてしまう。自分を極小まで矮小化すると、自我は飛んでしまうだろう。そして、人間が対面するのは、苦の問題となる。苦は、身体的な苦痛もあるが、大部分は心理的な苦痛である。その中には、生死の問題も含まれる。しかし、多くの場合、苦の原因は相対的なものだろう。自分の考えている世界、つまり妄想によって苦が生じる。無常の原理を理解し、すべてのものは一定の場所に留まらず、かつ変化することを理解すべきなのだろうか?そして、意識はすべて現象に過ぎず、その現象によって気持ちを左右される心は存在しないことを明らかに感じることが必要なのかもしれない。宗教は超越性を持ち、人々の依存心を拠り所にするよりも、ブッダのような根源的、無常・苦・無我を拠り所にするべきであろう。
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