ブッダは弟子たちに、次のように諭していた。「自らが自らのよりどころとなり、決して他人を頼らず、他人へ助けを求めないように」、「人間は自らの努力と知性によってあらゆる束縛から自らを自由にすることができるのだから、自分を啓発し自分を解放するように」と。
現代では、ブッダと違い、自立心を育むことよりも、他人を頼り、他人へ助けを求めることが第一と教えられているようだ。学校でも家庭でも、協調を優先する。言葉を変えれば「あまり自立しないように」と教わることと同じである。大きなことを成し遂げ、優秀な成績を上げた場合でも、「周囲の人の励ましによって」、あるいは「多くの人の支えによって」と言うように促される。決して「自分が努力した」ことが成功した原因であるとは言えないのだ。
自立することは、ある意味自分勝手に生きることでもある。しかし、現代では自分勝手は良くないと教えられる。幼児教育から高等教育に至るまで、自分自身の問題より、他者との関係が第一(あるいは社会貢献が第一)であり、助け合いは絶対必要なものと教えられる。
4千年前のバンド社会(30人を限度とする狩猟採集部族社会)では、一人で生きていけないことは明らかだった。共同で狩りをして、獲物は均等に分配したほうが合理的だった。それから数千年の時代を経て、現代は、果たして一人で生きていくことが出来ない社会なのだろうか?いやいや、人は一人では孤独に陥り生きてはいけない。人は支え合いを必要としている―それは果たして本当か?倫理では常に、自立と協調が問題となるが、日本の教育において自立と協調性のバランスは、常に協調する方向に傾いている。
組織を考えると、その構成員の自立傾向が強い場合は、組織が進化し、強くなり、時には拡大するが、その反対に、統制が取りづらく、分裂傾向になりやすい。その反対に協調傾向が強いときには、統制が取りやすく、まとまりが良いが、進化することや、強くなることは少ない。指導者や管理者から見ると、構成メンバーの自立傾向が強い組織は管理し難いし、協調傾向が強い組織は管理が簡単である。そのため、学校でも会社でも「管理のしやすい」協調性を重視した教育を行っている。例えば、学校で校則を厳しくする、制服を作るなどの自立性を消し去るような教育を行うことは、一律の規律を求め、多様な自立性を消し去り管理を容易にする効果がある。会社も同様に、規則を重視し、社員が自由に行動することを制限することは、建前としては情報の漏洩を防ぐことや不祥事をなくすためかもしれないが、管理を簡単にする意味しかない。学校でも会社でも、建前とは別に本音では、自立性の高い集団になると教師や上司は管理が大変なので、規則を作り管理を厳しくすることによって、自立性を低下させ、自分が担当するクラスや部署を管理しやすくしているのかも知れない。
自立性は、また、正解を求める現在の教育とは相容れない。正解が一つであることを前提とした教育は、小学校では一般的に当然と考えられている。教師は生徒に色々の意見を言わせるが、最後は正解を教えることを目指している。しかし、自然科学分野(数学、理科など)では確かに正解は一つであることが多いが、人文科学分野(経済学、心理学、哲学など)では必ずしも正解は一つではない。にもかかわらず、正解を示す教育を行うことこそが、自立性を摘んでいるのだ。
教育の場と異なり、一般社会では、正解は一つでなく、複数の正解があるのが普通だ。複数の答えを前提とすれば、教育は答えに至る過程こそが重要であり、結論自体は余り意味がないと言える。その証拠に、中学や高校で正解を習った、あるいは記憶させられた、多くの知識(数学、歴史、地理、化学、物理など)が、卒業した途端に倉庫に入ってしまい、二度と役に立たない現状がある。
社会で自立して生きることは、正解はいろいろとある中で、自分自身の考えに基づき、自分自身で考え出した結論を前提に行動することを求めている。依存的な性格や態度は、生まれつきのものでなく、生まれた後の教育にあることは確かである。正解のない事柄に対して自分で考える習慣は、教育の基本となるものであり、正解を教えるものとは大きく異なっている。
自立を促す教育は競争を煽る危険を指摘される。この指摘は、一つのゴールに大勢が殺到することから生まれる。真の自立を目指すことは、多様なゴールを認めることであり、競争とは別物だ。各個人が努力し、自分自身が目指す道を歩むことが自立心というものだ。社会は若者の自立心を育て、見守るべきだろう。そして、時にはいっときの休息を認め、疲れたときには安心して休むことが出来るようにすべきだろう。教育は自立を促すことから開始すべきであり、決して依存心を煽ることを行うべきではないのだ。
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