何事においても、「絶対正しい」ということはない。例えば、今回の新型コロナウイルスの例においても、はたして感染対策はどの程度必要なのかについて、当初よく分からなかった。死亡率がインフルエンザ並みの低さであれば、インフルエンザ程度の対策、例えば、学級閉鎖、学校閉鎖、感染者の会社への出勤停止、などの措置を取れば良いと考える人もいた。イギリス、アメリカ、ブラジルの指導者などだ。この考えはいまだに指導者の中には残っている。
異なる意見はどの様な場合でもある。PCR検査はいまや一般名詞になり、どのようにすれば数多くの検査が出来るかについて意見が飛び交っているが、いまだに一部の学会では、PCR検査を多くの人に行う必要はないと述べている。つねに反対の議論はあるものだ。反対の議論を考慮に入れることは必要だが、政策を実行するためには、一部の反対を抑えて政策を実行するしかない。無論、議論を大いに戦わせてからの話だ。議論をした上で、反対意見が続けば、そこで立ち止まるか、反対にもかかわらず政策を実行するかである。この場合、「なんとなく」では都合が悪いし、あと腐れが残る。強制が必要となるのだ。強制的に(反対があるのも関わらず)政策を実行した場合、反対意見は相変わらず残っている。そして、政策に対する責任も生じる。政策を実行するためには、この過程は無数に出現する。すべてのことに対して満足した政策を行うことは出来ないので、政策の実行には、ある程度間違いとリスクを負う。マスコミは国家の統制を嫌っているが、強制ではないために責任の所在が明確でない自粛は国家の統制よりも始末が悪い。
反対意見をあまり表面に出さず、なんとなく雰囲気で政策を決めると、反対意見論者には都合が悪い。意見の行き場を失い、そのうち反対意見は「非国民」的になってしまい、世の中に残らなくなる。この様な雰囲気は、社会の基盤に大きな影響を与える。
ということで、政策を決めるときには激しい議論が必要であるが、議論に慣れていない人は、議論と喧嘩とを混同しがちである。そして、往々にして議論はその主題から離れて、当事者への人格攻撃になる。こうなると喧嘩だ。論理の世界では、どの様な意見でも、それが論理的に正しいか、間違っているかによって判断される。喧嘩にならず、論理で意見を戦わすことは、議論慣れしていないと無理である。
どうしても妥協できない場合には、多数決の方法を取る。そして、その決定に従わなければならない。これらの法則は、小学校で習う民主主義の一般法則だ(しかし小学校では、多数決は教えるが、議論のやり方は教えていない)。欠けているのは、議論を行う過程での議論の技術である。議論の技術は小さい頃から絶えず行うことで磨かれる。相手の意見を分析し(自分の知識の範囲内で)、意見に対する同意、あるいは部分的な疑問、あるいは全面的な反対意見を明らかにする。そして、提案者は、「反対意見に対する反論」を行う。それが、民主主義を守ることになる。決して教育は英語や算数のものではない。まして一般に言われる「ディベート」的なものでもない。議論の要点は、勝敗でなく、議論の論点を外さないようにすることだ。議論の論点を外すと、議論は焦点を失い漂流する。議論が焦点からそれると議論にならないが、最近では、あえて焦点を外すような議論の方法がまかり通っている。この様なルール違反は即刻退場だ(その場合司会者は重要である)。また議論では、具体的な数値や事例が大切となる。一般法則を支えるのは、現象的事実だからである。
議論の教育には、議論のやり方と、議論に伴う感情の統制とが必要だ。議論のやり方の教育には、指導者が不可欠であるし、感情の統制は、議論の回数や経験が大切である。多分これらの教育は、幼少時(3歳から9歳まで)から始め、高等学校で本格的に行う必要があるだろう。社会に出ると、色々の制約が生じるので、議論をしないための立場や配慮など、色々の言い訳が生まれる。この段階で始めからの議論のやり方を学ぶことは出来ない(しかし進化することは出来る)。議論はすべて教育の賜である。
議論を日頃から繰り返す習慣があれば、政策がうまく行かないときには、対立意見を採用すればよい。何人も神ではないので、絶えず間違いを犯す。間違えれば、素直に、出来るだけ早く間違いを認め(この様なとき、あまり謝罪の必要はない-しつこく謝罪を求める社会では間違いを認めにくい)、政策を転換すべきである。反対者も鬼の首を取ったように相手を非難すべきではない(多少は非難してもよいが)。同じ様に自分も間違えることが多いのだ。議論が日常的に賢く行われ、人格攻撃にならず、間違いを素直に認め、早めに政策を転換するような社会が望ましいのではないか。
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