死を忌避する思いはどの文化においても行われることである。死は日常的な話題とはならない。「いつ死んでも良い」あるいは「ぽっくり死ぬのが望みだ」と言っても、それは当人からすれば遠い将来の出来事を述べているに過ぎない。試しに、「いつ死んでも良い」と言っている人に、ではあなたは明日死ぬことになっていると言えば、多分、明日は○○の予定が入っているので「都合」が悪いと、拒絶の返答を言うであろう。人間は「いつ死んでも良い」と思っているのではなく、死に臨んで少しでも覚悟が出来ているかどうか問われた場合に、「多分出来ている」と答える程度なのだ。
20歳で亡くなる若者と、100歳で死ぬ老人とを比較すると、その価値は一般的に大きく異なる。当然20歳の若者はその死を悼まれ、100才の老人は十分生きたのだからと、言われるだろう。外部からの客観的な視点は上記のようである。しかし、死は本来外部から良いとか悪いとか言われる出来事ではない。ある行為が良いか悪いかを評価されると、反省したり反発したりして、その後に行動を変える余地があるが、死はそうはいかない。死ぬとそれ以降の行動は無い。
死に対して影響を与える意思以外の要素と言えば、エロス的衝動、そして、魂の存在を認めるかが問題となる。エロスとタナトスを対比させたのは、フロイドであり、エロスは生の本能あるいは意欲、タナトスは死の本能などと言われる。エロス的な衝動は若者に強く(タナトス的な一時的衝動も若者にはあるが)、それに反して、高齢になるとエロス的衝動は低下するようだ。従って、死に対する姿勢も変化する。高齢者はその点で、死に対する認識を若者よりずっと多く持つべきだろう。しかし、死にたいと言う割には、死に対する考えが高齢者に深く理解されているとは言えないようだ。この事が大きな争点とならないのは、どちらにしても社会的には問題ないと言えるからである。なぜなら、人間は全員死ぬことになるので、問題としない場合でも、問題とする場合でも社会から見ると同様の結果となる(しかし個人から見ると大きな違いだ)。
「魂」の存在を認めるかの問題は、エロス的衝動よりも、一般的に語られることが多い。ニコラス・ハンフリーは次のように述べている。「意識は、個人に対して人生に目的を与えることに成功した見返りに、人間を死という牢獄に閉じ込めるはずであったが、間一髪、(人間は)刑務所釈放カードを手に入れたようだ」刑務所釈放カードとは「魂」の存在を認めることであり、死後の生を信じる気持ちは、この世で使命を全うしようとする個人の意欲にとって(あるいは意欲を失うことにとって)必要不可欠なのだ。しかし、この信念を揺るがしかねないのが、科学である。発達心理学者のポール・ブルームは、あなたが考えている危険思想は何かという問いに対して、次のように答えている。「私が抱いている不穏な思想は・・・・魂は存在しないという考えだ・・・・。」彼の言う意味は、科学的に魂の存在が否定され、それを人間が承認したら自分の魂は肉体の死後も生き続け、天に上るという考えを「放棄」しなくてはならなくなる。これ以上の危険な考えは無いだろう。
日本人は、実質的に無宗教だと思われるが、魂については態度を変える。「科学的」な考えを無視し、魂が存在すると表明する人が圧倒的に多いのだ。「草葉の陰で見守ってくれる」「死んだ親も天国で喜んでくれるだろう」などは、いずれも死後の魂の存在を前提としている。進化論的な考えを教育され、科学的説明に弱い日本人が、なぜ、科学に反する魂の存在を是認するのか? その答えは、ニコラス・ハンフリーが述べているように、絶対無となるような死に対する恐怖からだろう。高齢化社会が、従来の社会秩序を侵食している今日、我々は、中途半端な状態から脱し力強い生を得るために、死に対する認識を再認識する必要がある。それは、魂の存在をあやふやに是認し、恐怖から逃避するのでなく、実存的な考えを持つべきであろう(残された人が死者を思うために魂の存在を考えることは必要かもしれないが)。
個人の消滅が絶対無となるかどうかは、次の様に考えても良い。生物は何もないところから発生するのでなく、有機物あるいは無機物の違いはあれ、あるものから発生し、その生物が死亡すると別の物へ移転するのである。例えば、人間の死に伴って人間の体や意識は消失するが、その構成要素である、有機物あるいは無機物は、形を変えて地球上に存在する。人間の体をハゲワシが食したとしても、それはハゲワシの一部となる。地中の微生物が人間の体を分解したとしても、その構成要素は、微生物の体の一部となるのだ。地球上で万物は、その形態を変化させるが、要素は形を変え、他の生物の役に立っているのである。物はすべて一定の形に留まらず常に変化している。そう考える自分も長い地球の年月の中で一瞬の存在であることを考えると、自分自身に(魂も含め)過度の執着をすべきではないように思えてくるだろう。
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