人間の細胞で変わらないものは、心筋細胞、眼の水晶体細胞、そして、脳細胞であると言われている。変わらないと言うのは、いったん作られるとそれ以上分裂しないという意味である。脳細胞はむしろ出生時から減少することが知られている。この知見から、脳は変化しないと考えられていたが、20世紀の後半には脳の可塑性(脳が固定的な物でなく変化する可能性があること)が分かってきた。脳細胞自体が増加するのではなく、脳細胞相互の連絡網(シナプス)が新たに作られるということだ。この事を現代のコンピューター社会において、知識の集積をどの様にするのか、そして、教育や研修などはどの様な方法を取ればよいのかを考える上での参考としたい。
従来の社会と、近年のコンピューターを基礎とするネットワーク社会との、知識習得についてその違いが研究されている。それらの研究によると、今までの書籍からの知識の取得と、ネット上での知識習得との違いは次のようなものである。従来の書物を読む場合は、かなりの精神的集中を要する。例えば、哲学書を読み始めるとすぐに眠くなるのは、哲学などの読破にはかなりの集中力を要することから、その結果、精神的に疲れてしまい眠くなるのだ。それほど書物を読む場合は、集中力を必要なのである。これに対して、ネットの場合は画面を頻回に変えることが出来る。例えば、何かをネットで調べている時にも、メールの画面に切り替えることがあり、集中力の点では、書籍を読む場合に比べ大幅に劣るようだ。その結果、一定の内容について、書物を読んだグループとネットで習得させるグループとの間では差が生じ、書物を読んで内容を習得する方が、ネットでの方法よりも、はるかに勝ることが色々な実験で分かっている。ただ、種々雑多な一定量のあまり深くない知識については、ネットの検索機能を使えば、簡単に習得できる。この様に書物とネットでは知識の習得対象が異なり、「浅く広く」か「狭く深く」の差になるだろう。ただし単純な知識検索と、知的能力の向上とは異なることを注意したい。
人間の脳では、認知能力と記憶力が相まって知的能力を形成している。人間の脳での記憶方法と、コンピューターでの記憶方法は、表面的に似ている部分もあるが、内容では大きく異なっている。似ているのは、人間の脳においての作動記憶(短期記憶)とコンピューターのCPU(中央処理装置)、人間の長期記憶とコンピューターのハードディスク装置(補助記憶装置)である。作動記憶(短期記憶)とは、一時的に記憶しておいて前後の関係をスムーズに運ぶ役割がある。会話がその代表例で、会話の前後を記憶しておいて、つじつまを合わせなければならない。この場合に、一時的に記憶を蓄える場の、作動記憶(短期記憶)が必要だ。しかし、作動記憶(短期記憶)に蓄えられる記憶容量には限度がある。例えるならば、会話をしていて自分が喋っている場合、直前に喋ったことは、取り敢えず作動記憶(短期記憶)に一時的に蓄えられるが、速やかに消去される。作動記憶(短期記憶)領域は一定の容量しかないので、多くのものを蓄えられない。時間でいえば15秒程度で文字にすると7文字程度だ。作動記憶(短期記憶)の記憶は速やかに長期記憶領域に転送されるが、この時に、集中力を欠いていると転送効率が非常に悪くなる。その点、書物を読む場合は、集中力が必要なので、作動記憶から長期記憶への転送効率は良くなる。同様に、誰かの話を聞く時にも、その話に対する集中度に応じて転送効率に差が出てくる。反対に、ネットの作業などで代表されるような集中を欠いた作業の場合は、作動記憶(短期記憶)から長期記憶への転送が悪くなる。注目すべきは、この様な変化は機能的にのみ生じるのでなく、驚くべきことに、シナプスの新生をもたらし、器質的 1) な脳の変化となることである。1) 物質的、物理的
ネットでの作業でさらに問題となるのは、その情報が検索すれば得られる、あるいは、パソコンに保存されているなど、脳以外の外部記憶装置に依存している場合だ。脳に知識が蓄えられず、外部記憶装置に頼ると脳内の記憶ネットワークの形成が妨げられる。脳の長期記憶に蓄えられると、脳内の記憶相互に関連するネットワークを形成し、色彩鮮やかな記憶となり、また、新たに作業を行う場合、関連する色々な記憶(文字、音、色彩、あるいは関連する項目など)が長期記憶から容易に引き出され、総合的な分析に有用となる。外部記憶装置に頼っている状態であれば、これらの作業は、いちいち保存された外部記憶装置から引き出さなければならないし、記憶相互の関係性も構築することが出来ない。結局のところ、ネットに依存する社会では、個人の知的能力が必ずしも向上しないのではないかという危険を孕んでいる。
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