人間の悩みは、「私」の存在から生まれた。AIのような機械とは異なるのだ。「私」が在るが故に、個人的、社会的を問わず、人間は色々な問題を抱え、それに対するケアも必要となる。仕事上での悩み、健康上の悩み、人間関係の問題等々、もし機械であれば、この様な悩みや苦痛はないはずだ。
では、「私」とはどの様なものか? を考える必要があるのではないか。「私」は単なる「意識」とは異なる。動物にも「意識」はある。しかし、動物には「私」を想定しにくいだろう。何故なら「私」というものが出現するのは、人間やそれに近い生物からなのである。
「私」が出現するのは進化論的に考えると、それが生存に有利に働くからだと考えられる。もし、「私」の出現が生存のために不利になる場合は、「私」を出現させた種は、早々と絶滅しているはずだ。それが「進化論」の極意なのだから。進化は、人間に「私」を出現させ、その結果、今日の地球上での人類の大繁栄を招いたのである。
では、「私」が進化にどの様に貢献したのか? 生物には、内部環境を整えるための仕組みがある。人間などの高等動物には、免疫環境、循環器系、呼吸、体温など体内環境を最適に整える仕組みがあるのだ。同様に、単細胞動物にも体内環境を整える仕組みは整っている。周囲から得たエネルギーを効率的に使い、それを排せつするなどの仕組みは、単細胞生物にも、生きるためには必要であるからだ。
生物は、進化して複雑になればなるほど、体内環境を整える仕組みは複雑になる。これを「ホメオスターシス」と呼んでいる。「ホメオスターシス」は、外部から取り入れたものを使って、生命の維持を効率的に図る仕組みである。しかし、内部でいくら調整機能を整えても、生物の周囲には同時に外部環境があって、その中で生物は暮らしているのである。内部を調整するだけでは不十分であり、生きていくことは出来ない。例えば、外部からは、生存に必要なエネルギーの取り込み、外部の捕食者などからの避難や暑さ寒さへの対策など、外部環境と密接に関係して生きている限り、外部環境との整合性も必要となるのである。外部への働きかけは内部環境を整えるために必要であり、外部からの攻撃や問題を解決するための仕組みなのだ。
これらは自動的に発動される。例えば、エネルギーが必要になる場合には空腹を感じて、食物を求める行動を起こす。活動すれば、新たな酸素を必要として呼吸が速くなる。攻撃されていると感じれば、血圧が上がり、脈拍が増加し、呼吸が速くなる。これらを「情動」と呼んでいる。「情動」は人間独自のものではなく、動物一般に備わっている。従って、この時点では「私」はまだ出現していないのである。
「私」が出現し始めるのは、「情動」に伴い「感情」が加わり始める時点からである。「情動」は、ほぼ自動的に発動されるが、それに伴う「感情」は、「情動」の発動を容易にし、「情動」の成果を確認できる効果があるのだ。例えば、空腹で獲物を必要とするのは「情動」であるが、何となく危険を感じてこの場所での狩りを控えるのは「感情」である。尿意を催すことは「情動」であるが、大勢の前での排尿行為を恥ずかしいと感じるのは「感情」だ。
「情動」に伴う「感情」を獲得できる生物は、その前提として「記憶」装置を発達させている。「記憶」の発達は、「感情」を効果的に働かせる。そして、生きるための行動を進化させるのだ。「感情」は、行動の大きな原動力であるが、「記憶」から引き出されることも多い。行動の大きな要因となる「感情」は、進化と共に、「情動」のみでなく、「記憶」がその構成要素となる。例えば、いじめられた「記憶」は、一般的な「情動」全般に受ける影響(心理学的なトラウマ)を引き起こすと同時に、「記憶」を基にして、いじめた当人に対して大きな負の「感情」をもたらす。
「情動」「感情」の大部分は脳の古い部分、つまり、大部分の脊椎動物が持っている「脳幹」で行われる。それに対して、「記憶」は、主に大脳皮質で行われる。人間の脳が他の動物よりも飛び抜けて大きいのは、「情動」に関与する部分ではなく、「記憶」に関与する大脳皮質が大きいからである。
「記憶」が進化すると共に、一時的な「情動」だけに頼っていた他の生物と異なり、過去を記憶し、将来を見据える能力が人間に発達した。以前の瞬間的なその場のみの意識と異なり、過去の記憶と将来の展望を考えることが出来るようになった人間に「私」が発生した。この様な自己形成は、拡大自己あるいは自伝的自己と呼ばれ、記憶が乏しい状態の中核自己とは区別される。「私」の形成は、生存の可能性を飛躍的に高めはしたが、同時に自己に対しての「悩み」を生じさせることになった。
しかし、人間のすべてが同じような「私」を持っているとは限らない。最も弱い場合は、ほとんど「私」がなく、周囲の人たちや環境と同化している。反対に「私」が非常に強い場合もある。「私」が弱い人は、自分の人生が周囲の環境と共に流れていくことを是認し、逆に「私」が強い場合は、自分の存在について(死生観)常に悩むことになるのである。どちらが幸せな一生を送るかは不明であるが、少なくとも「私」が強い人に悩みは大きくなるであろう。
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