超高齢化社会において、死は宿命的に多くの人に対して迫ってくる。しかも、死は華々しく現われるものではなく、ひっそりと訪れる。日常的に遭遇するのでなく、特別な場合に訪れる。かつて、人間はあっけなく戦争や伝染病によって死を迎えた。人口比での死亡率を考えても、狩猟採集時代、産業革命以前、そして現代では、人口当たりの死亡率(年率)は、それぞれ一桁ずつ減少している(30%⇒3%⇒0.3%、スティーブン・ピンカー:人類の暴力史)。従って、現代の死とは重々しくあり、かつ稀な現象となる。多くの日常で死は語られず、それを語る場合には襟を正すかのように、正座して語られるべきであると考えられている。
死についての書籍や論文を見ると、死そのものではなくて、死にまつわる社会学的な問題を取り上げる場合が多い。例えば、①医療的な場面での死の扱い方、②死を宗教的に見た場合、③社会生活での看取りや孤独死の問題などである。実存(現実に生きている状態)としての死については、あまりにも個別の事象なためか、一挙に哲学的に考察するようだ。しかし、死はすべての人に平等に訪れ、そして、人間が生存する期間も、おおむね100年以内に限られている。死をどのように考えるのか、あるいは、生をどのように考えるのかについて日常的に考える必要は十分ある。
死について考える場合には、3つの視点がある。3人称の死、これは、一般的な死の概念について考え議論する事である。多くの場合、「死について考えましょう」と言うと、この3人称の死を指している。例えば、看取りや残された人たちのケアについてであったり、安楽死の是非などである。議論することは必要だが、今一歩、リアリティに乏しいと言わざるを得ない。自分の問題として考えられないからだ。2人称の死は、肉親や極めて親しい人の死である。親しい人を失った悲しみが深くて、その結果、自分自身がどの様な生活を送ることになるかなどについての感情が湧きあがり、3人称の死に比べて、リアリティが強まる。1人称の死、つまり自分自身の死については、体験することが出来ない。ロシアのことわざにあるように、「なぜ死を恐れるのですか。まだ死を経験した人はいないではありませんか」とも言えるのである。しかし、1人称の死は、考えること自体が難しくて真っ暗な穴にまっさかさまに落ちるように、何とも言えない気分になるであろう。
一般的な人間から見て、1人称の死に対する態度は以下のようなものだろうと考えられる。
① 死について考えることをしない人、縁起が悪いと大騒ぎする人(頽落的態度)。恐らく多くの人が、この様な態度を取っている。死については、常に3人称の態度で考えている。
② 死後の世界を確信している。この場合は、「確信」するかどうかだ。宗教に帰依している場合も、いわゆる「自動販売機宗教」のように、お願いをするとご利益がある式の宗教感では、死後の世界を確信することは出来ないだろう。反対に、死後の世界を確信できる人は、非常に幸せだとも言える。日本では、進化論的な教育が徹底している為に、神が世界を創造したのではないと、大部分の人が考えるようになっているので、この立場は少ないと考えられるが、実はそうでもない。死後の虚無を考えるよりも、天国は信じていないが、魂の不滅を信じ、辛うじで精神的安定を保つ態度は一般的である。
③ リアリティを持って死を考えること。「実存的」に考える意味だが、死後には何もなく、「無」が待っていることを受け入れるのは、甚だ困難である。その上、ハイデッガーの言う、「時間性」が重要で、多くの場合、死を真面目に考えるとしても、所詮将来の事で(死の時間が決まっていないので)、実感が持てないことも確かである。リアリティを持って、死を見つめることの勇気は大変であるし、果たして本当に死を実感しているかどうかが問題である。
さらにもう一つ、他人のために死を考えることが出来る立場もある。子供の代わりに死をいとわない親や親しい人の為に死を選ぶ人などは、本当に大きな尊敬に値するが、果たして、普通の人が、普通の精神状態でこの様な選択が出来るかどうか疑問である。③の実存的な死を考えることが、日本人一般が選択すべきだろうが、その環境が必要であると思われる。ニコラス・ハンフリーによると、人間は無に対する実存には耐えられず、理論的には無理と承知で魂の不滅を信じるそうだ。魂の不滅を信じること自体は問題になることはないが、医療や介護の現場においては、死を前提とした考えを進めることが出来ない現状は、いろいろな問題が続出している(この問題については後日議論したい)。
死を容認できる条件として、多くの人は苦痛が強い場合がある。耐えがたい苦痛があるときは生よりも死を選ぶだろう。これは身体的な苦痛に対してであるが、精神的な苦痛にも共通することだ。さらに、生への執着が少なくなる場合もそれに当たる。老年期は、人生の「まとめ」とも言える時期である。人間が寿命を長らえることは、死に対しての準備を整えているとも言えるのだ。若者の死は悲惨であり、環境が整っているとは到底言えるものではない。老年期は、自然に生への執着を減少させ、「実存的」に考えるための環境を整えてくれている時期でもあろう。あるいは、すべての人間が、長生きをした代償として、考える義務があるとも言えるだろう。その為には、生物的な「生」のみに注目した現状での高齢者ケアを大きく見直すと同時に、個人の意識や覚悟を問わない限り、死への環境を整えたり、安らかな死へと向かうことなどは出来ないと思われる。
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