自分の世界と他人の世界

人間は、動物と同じように、自分自身の世界で生活を行い考えている。自分の認識している世界以外の世界は存在しないのである。例えば、南スーダンの状況を全く聞いたことがない人にとって、南スーダンからの難民は、その人の世界では存在していないことになる。つまり、自分の認識する世界があり、それ以外の世界を想像することは不可能なのだ。

それは例えば宇宙の始まりは、今から130億年前であると言われ、一応納得してもそれ以前はどうなの? と質問したくなるのと同じだ。人間は、線形時間の世界(時間と共に経過する連続的な時間)にあるので、非線形世界での宇宙の始まり以前は、時間が存在しないと言われても、それは理解の範疇を超えているのだ。

よくある問題に、深い森の中で木が倒れる時、果たして木が倒れる時の音は存在するのか? というものがある。多くの場合、それに対して当然木が倒れるのだから音は発生すると大部分の人は答えるが、それは疑問がある。なぜなら、深い森の中で誰も近くに行くことが出来ないので、木が倒れた現場を知る人はいない。そこで、誰も知らない間に木が倒れた場合に、地球上誰もそれを見たり聞いたりしなかったら、誰が音の在りかを言い立てることが出来るだろうか。世界は、木が倒れたことを無視して、継続するだろう。

アフリカやシリアで1日数十人の人が殺害されていることは、先進国の多くの人には時々それを聞く場合もあるが、頭の中には残ることなく、日常生活では、その問題は存在しないのも同様だ。ニュースを聞かない人には、アフリカやシリアで多くの人が殺害されていること自体が存在しないだろう。この様に、人間にとってそれぞれ一定の世界が有り、その範囲内に有る場合には、それらの事象はその人にとって存在するが、認識の世界の外に出ると、個人には、有ったとしても「知らないのでなく、そもそも存在しない」のだ。

この事は、まれな出来事を問題にしているのでなく、日常的、あるいは世俗的な事象に対して個人ごとに認識が異なる原因となる。例えば、Aさんをよく知っている人は、Aさんが意外なことをしても、「そうだろう」と考えるが、全くAさんの事を知らない場合は、異星人のように感じるであろう。

もし、自分が知らない世界について「知らないのかもしれない」と考え始めると、自分自身の判断に限界があることに気付き、他者の言葉に、より耳を傾けることが多くなるだろう。

難しい物理の理論や、経済の計算法則などは、初めから「知らない」と済ませたとしても、難しい理論の存在は知っている。従って知らないことにはならない。その難しい世界に入らない選択をしたとしても問題ないが、日常生活ではそうはいかない。しかし、日常的な問題で自分の知らない事柄が数多くあることを、普通の人は認めない。知らないことを知っていることは、「知らないわけではない」ことになるからだ。そうではなくて、普通は知らないことは「存在しないこと」つまり「無いこと」になり、知らないのでなく、「存在しなくなる」のだ。

そこで、自分自身が構成している世界と他者の世界とは、初めから異なっていて、一つの問題に対する考えも異なっていると考えるべきである。なぜなら、本当に自分自身は他者の考えを知る術がないのだから。この考えは、人間一人ひとりがかけがえのない存在で、尊重すべき対象であることの基礎となる。内的世界が異なる他者を強引に従わせることが出来ないのは、この理由による。
また、対話が重要となることもこの理由からだ。他者が自分と同じ世界に存在すると考える傾向にある点は、物理的環境が同じだからという理由からだろう。他者の尊厳を尊重しない場合はともかく、一見尊重しているように見える場合であっても、「世界が同じ」と考えるや否や、他者の世界は消失し自分の世界に他者を引きずり込む結果となり、他者の尊厳はその時点で消失するのだ。

公益財団法人橋本財団 理事長、医学博士橋本 俊明
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
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