ヴィクトール・フランクルは、名著である「夜と霧」の中で、強烈な自己肯定感を述べている。人間には生きる意味が有るのでこの意味を失うと、もはや生きることが出来ない。特に過酷な強制収容所であれば、この意味は大きい。強制収容所を生き延びた人たちは、いずれも過酷な環境下におかれているにも関わらず、将来の希望を持ち続けたそうだ。
しかし、現在に至るまでの膨大な検証では、自由を奪われ、全面的な拘束下に置かれた場合、自己肯定感を喪失し、「生きる意味」を失うことが確かめられている。
狩猟採集時代の人間は、他の動物と同じように、飢えと他の動物からの襲撃とを恐れ、生きていくこと自体が大変であり、生きる意味を見出すのはその時代には少なかっただろうし、必要もなかった。自由は確保されているが、生理的欲求や安全欲求を満たすまでには至っていなかったのだ。農耕社会に移行して、生理的欲求と安全欲求が満たされると、人間は初めて「生きる意味」を考えるようになる。同時にその時代は、狩猟採集社会と違い、他の支配者から自由を束縛される社会に移っていったのである。その結果、生きることは単純に生活する事ではなく、ある程度自由を制限された状態で、何のために生きているのかが重要な問題となったのである。これは、大げさな目標や理念を意味しているのでなく、日常的な問題である。
例えば子供のために、妻のために、仕事の達成のために、あるいは、自分自身の楽しみのために等である。目的をすべて無くした場合には、例え衣食住に満足し、安全が保たれても、生きることが難しいかもしれない。
生きる意味を失わせることは出来る。それは、何のために生きるかを奪うことだ。その為には、拘束し、行動の自由をはく奪することである。アーヴィング・ゴッフマンは、この様な視点から、「施設」の典型例とその問題を示している。自由を奪い、行動を制約する状態に陥らせると、「生きる意味」をどの様に喪失するかについてである。
その施設の一つが老人ホームなのである。老人ホームは元々、高齢者の住みやすい住まいを提供することが目的であった。ところが管理が導入されると、入居者の生活をコントロールするようになり(善意から行われることが普通である)、結果的に自由を束縛し、行動を制限するようになる。名目は入居者の安全の確保である。一般的に、自由を束縛され、行動を制限された場合に、人間がどう感じるかはすでに多くの事例で明らかになっている。それにもかかわらず、「施設」の管理は行われている。
高齢者ケアの目的は、高齢者が障害を持ったとしても、生きる意味があるような生活を手助けすることにあるのだ。高齢者の過度の安全のために、自由を束縛し行動を制限するためにあるのではない。その意味で、「施設」は消え去らないといけないのだ。ヨーロッパ諸国で行われているように、施設管理から一般住宅への移行を促さなければならない。その手段としては、障害があっても自宅で生活することが出来ること、それが困難な場合は、高齢者集合住宅へ移動して、自由に生活を送ることなのである。
この様な自己肯定感に注目し、環境との関係を調査した研究は日本でも有るが、比較的少ない。
国立青少年教育振興機構が行った、日本・米国・中国・韓国の高校生を対象とした調査結果でも、このことが浮き彫りにされていて、「自分はだめな人間だと思うことがあるか」という質問に対して、日本人の72.5%が「とてもそう思う」「まあそう思う」と回答。これは同じ質問に対する答えで、中国(56.4%)、アメリカ(45.1%)、 韓国(35.2%)と比べると突出して日本は高い割合だ(高校生の生活と意識に関する調査;平成27年度調査)。
また、内閣府の調査でも、図表1のような結果となっている。
図表1:自分自身に満足しているかどうか;平成26年版 子ども・若者白書(概要版)
日本人が、統計的に自己肯定感が低いのは、日本人が集団行動を好み、孤立を嫌う習性が有るからではなく、本来の自由な環境が提供されていないことが原因なのかもしれない。例えば、学校での自由な行動は諸外国に比べると明らかに少ないし、どちらかと言えば規律を求められる場合が多いだろう。そして企業に入る場合も、「一斉に」入社し、同じような過程を経ることを要求される。企業間の移動も少ないし、自分の意思を示す場合も限られるのである。この様な環境の果てにたどり着く人生の終末に、障害が発生した後の住まいの選択や、介護の選択においても、自己肯定感が少ない日本人は、選択肢を持つことさえ出来ないのかもしれない。それは、緩やかに、自覚することなく、自由を放棄し、拘束状態に自分を追い込んでいることになるのだ。
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