古代の社会では、人種、地域、あるいは地位において、人々の間にある不平等は当然であると思われていた。例えば、民主主義を最初に取り入れたと言われるギリシャでさえも、ギリシャ人と他国の人たちの間には、人種的な差があり、受ける待遇においても差別は当然であった。さらには、ギリシャ人の間でも地位や職種によって、差があることも普通とされていた。地位の低い人が地位の高い人に危害を加えた場合と、その反対の場合とでは、受ける処罰にも差があったのだ。
時代は下り、それらを否定したのは、トマス・ホッブスである。すべての人間は、市民的な集団の中で各人が自由であり、それらは犯すことが出来ない権利である。従って、自由のもとでは人々は平等に扱われなければならないと、彼は考えたのだ。この考えはさらに発展して、平等の範囲は広まっていった。
この延長線上に、功利主義の考えが起こってきた。功利主義は、各人が自由の下であれば、その能力に応じて富の分配を受ける権利があり、社会全体としてはルールを定めてその範囲で自由を確保し、私的財産を保障することが国家の役割で、その国家は市民が作るものである。そして、「正義は、各個人、あるいは社会全体の幸福を最大限に高めることが目的」となるのである。幸福を高めることが社会正義であり、それが功利主義の目的なのだ。
功利主義は、因果論をもとにしている。因果論とは、原因と結果の法則であり、何らかの現象が起こるのは、何らかの原因があるからだとの考え方である。言わば、介護の質を上げるためには(結果)、介護報酬の引き上げが必要である(原因・要因)などである。この様な因果論は、科学技術の発達に大きな力となったが、社会がどの様にあるべきかについて考える場合、因果論的な考えが、果たしてすべての事柄に対して通用するのかについて、疑う必要がある。
例えば、高齢者介護で最も必要なことは、「高齢者が障害を持っていても、生きる意欲を持つことが出来るように支援していくこと」であるが、その為には、「高齢者の自己決定」を尊重することが最も重要であると思われる。では、「高齢者の自己決定」はなぜ必要か? と問われると、そうすることによって介護保険財政が楽になる(在宅介護が増えるから)、自立心が養われるから、などを挙げるだろう。これらは、「因果論的」理由である。介護保険財政が楽になるために、「高齢者の自己決定」が必要であると考えることは、因果論的でもあり、功利主義的でもあるのだ。同様に、「高齢者の自己決定」を尊重すると、入居後のトラブルが少なくなるだろうが、これも同様に、因果論的であり功利主義的考えである。しかし、一方で、ではなぜその様な考え(功利的な考え)がまずいのかとの質問に答えるために、認知症の高齢者の例をあげてみよう。
認知症の高齢者に対して、「高齢者の自己決定」が大切であると述べると、反論が起こるであろう。認知症の高齢者は、理解力が低下している為に、決定することが難しいので、敢えて、当人には説明する必要が無く、家族や周囲の人が高齢者本人のために考えればよいのではないか、との批判である。この様な考えを延長すると、やや理解力が悪い人も同様であり、そのうちに高齢者全般も、どうせ理解力が低下しているのだから、複雑な説明はしなくても良い、と考えるようになる。実際、日本では、高齢者本人に対しての説明は多分に省略されていて、むしろ家族に対して丁寧な説明がなされている。行政もこの様なことを是認し、家族とのトラブルを重視しているようだ。
因果論的な解釈や考えで物事を考える習慣は、功利主義が蔓延している証拠である。確かに、企業が行う生産活動や利益を上げることに対しては、因果論に基づく、功利主義的考えは不可欠だろう。その上、家族が幸せに暮らすためにも、合理的考えのもとに因果論に基づく功利主義は必要かもしれない。しかし、世の中がすべて因果論でまとまっているわけではないのだ。功利主義がすべてではない。
カントは、理性が示す道徳法則に従って行動することを求め(定言命法)、正義を「君の意志の格律(ルール)が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように(通用するように)行為せよ」と述べている。因果論的論理(原因と結果の法則)ではなく、理念に基づいた行動を促しているのだ。幸福を求める善の追求でなく、絶対的正義のもとに行動するのを求めているのである。ただし、各人の自由は最大限尊重されるべきであることは当然である。
近代は、宗教以外の分野では、功利主義的な考えが、行動の一般的な考えとなっているようだ。功利主義とは無縁と思われる宗教においても、むしろ功利的な色彩が強くなっている。その例として、寄付をしたのだから、望みをかなえて欲しいと願うことは、ほぼ功利的な行動である。功利主義は今や日本全体に蔓延して、あたかもそれが、正義であるかのような印象を受ける。功利主義は合理性と同じように、絶対的に良いものとして扱われている。多くの人に良いものは、社会にとっても良いものであり、何かを考える場合、そうすると得になるから、あるいは、社会に有益だからとの原理を持ち出す場合が多いのである。
社会正義とは、時代によって理論によって、立つべき根拠が大きく異なる。現在の社会正義が果たしてどの様な結果をもたらすのか、一般に流布している正義を無批判に受け入れることは危険であると認識すべきだろう。ただし、現代が「功利主義」を基礎として動いているのは、確かなことなのである。我々の生活において、功利主義が幅を利かせる現象は避けられないが、その一方で、人間は自由であり、かつ平等であることを基礎とした考えが、功利主義の侵攻を食い止めることが出来ると期待していいのではないか
ジョワキンの記事を見る
Waode Hanifah Istiqomah(ワオデ ハニファー イスティコマー)の記事を見る
芦田 航大の記事を見る
岡﨑 広樹の記事を見る
カーン エムディ マムンの記事を見る
板垣 岳人の記事を見る
蘇 暁辰(Xiaochen Su)の記事を見る
斉藤 善久の記事を見る
阿部プッシェル 薫の記事を見る
黒部 麻子の記事を見る
田尻 潤子の記事を見る
シャイカ・サレム・アル・ダヘリの記事を見る
散木洞人の記事を見る
パク ミンジョンの記事を見る
澤田まりあ、山形萌花、山領珊南の記事を見る
藤田 定司の記事を見る
橘 里香サニヤの記事を見る
坂入 悦子の記事を見る
山下裕司の記事を見る
Niklas Holzapfel ホルツ アッペル ニクラスの記事を見る
Emre・Ekici エムレ・エキジの記事を見る
岡山県国際団体協議会の記事を見る
東條 光彦の記事を見る
田村 和夫の記事を見る
相川 真穂の記事を見る
松村 道郎の記事を見る
加藤 侑子の記事を見る
竹島 潤の記事を見る
五十嵐 直敬の記事を見る
橋本俊明・秋吉湖音の記事を見る
菊池 洋勝の記事を見る
江崎 康弘の記事を見る
秋吉 湖音の記事を見る
足立 伸也の記事を見る
安留 義孝の記事を見る
田村 拓の記事を見る
湯浅 典子の記事を見る
山下 誠矢の記事を見る
池尻 達紀の記事を見る
堂野 博之の記事を見る
金 明中の記事を見る
畑山 博の記事を見る
妹尾 昌俊の記事を見る
中元 啓太郎の記事を見る
井上 登紀子の記事を見る
松田 郁乃の記事を見る
アイシェ・ウルグン・ソゼン Ayse Ilgin Sozenの記事を見る
久川 春菜の記事を見る
森分 志学の記事を見る
三村 喜久雄の記事を見る
黒木 洋一郎の記事を見る
河津 泉の記事を見る
林 直樹の記事を見る
安藤希代子の記事を見る
佐野俊二の記事を見る
江田 加代子の記事を見る
阪井 ひとみ・永松千恵 の記事を見る
上野 千鶴子 の記事を見る
鷲見 学の記事を見る
藤原(旧姓:川上)智貴の記事を見る
正高信男の記事を見る
大坂巌の記事を見る
上田 諭の記事を見る
宮村孝博の記事を見る
松本芳也・淳子夫妻の記事を見る
中山 遼の記事を見る
多田羅竜平の記事を見る
多田伸志の記事を見る
中川和子の記事を見る
小田 陽彦の記事を見る
岩垣博己・堀井城一朗・矢野 平の記事を見る
田中 共子の記事を見る
石田篤史の記事を見る
松山幸弘の記事を見る
舟橋 弘晃の記事を見る
浅野 直の記事を見る
鍵本忠尚の記事を見る
北中淳子の記事を見る
片山英樹の記事を見る
松岡克朗の記事を見る
青木康嘉の記事を見る
岩垣博己・長谷川利路・中島正勝の記事を見る
水野文一郎の記事を見る
石原 達也の記事を見る
野村泰介の記事を見る
神林 龍の記事を見る
橋本 健二の記事を見る
林 伸旨の記事を見る
渡辺嗣郎(わたなべ しろう)の記事を見る
横井 篤文の記事を見る
ドクターXの記事を見る
藤井裕也の記事を見る
桜井 なおみの記事を見る
菅波 茂の記事を見る
五島 朋幸の記事を見る
髙田 浩一の記事を見る
かえる ちからの記事を見る
慎 泰俊の記事を見る
三好 祐也の記事を見る
板野 聡の記事を見る
目黒 道生の記事を見る
足立 誠司の記事を見る
池井戸 高志の記事を見る
池田 出水の記事を見る
松岡 順治の記事を見る
田中 紀章の記事を見る
齋藤 信也の記事を見る
橋本 俊明の記事を見る